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2007年5月

魔法少女リリカルなのはStrikerS 9話 『たいせつなこと』

あれだけ8話で好き勝手やっておいて、「なのはさんの訓練弾は優秀」のひとことで緊張感のレベルを一段さげたのは、うまい。
けれど、7話までだらっと物語を流してしまった現状を考えると、結局怒濤(どとう)の展開は起こらなかったということで、厳しい。
それでも、すくなくとも今回は、シーンにムダもなく、『Strikers』でもっとも脚本と演出がかみ合った話だった。

  • この9話の中で完結する見どころがきちんとあり
  • この9話でなにをしたいのかが明確で
  • 8話までの物語の意味づけを提示し、10話以降の流れへの筋道をつけた
  • ついでに、おおきな物語もすこし進んだ

物語の流れとして、今回の9話は、シーンが妥当に配置されている。
あくまで妥当であって素晴らしいではないのだけど、『リリカルなのは』は妥当なものの丁寧な積み重ねが武器なので、らしいかたちだと思う。

ただ、やっぱり「Strikersはどうしちゃったんだろう」という感覚は残っている。
どこにそう感じたかというと、元々は、なのはとティア(新人)がモメていた問題なのに、その解決をシグナムとシャーリーがやってしまったことだ。

そのあいだ、なのはさんはなにをしていたかというと、敵が海上に出て新人では戦えないという理由で、みずからそれを迎撃に行っていた。
このあたり、設定としては教官と訓練生の関係よりも本来業務のほうが大事なので、多少引っかかるが妥当だ。

ティアナはというと、本人がいない間に、取り巻きによって「なのは」「なのはAs」の回想まで使って袋だたきだ。
そして、機動六課に居場所がなくなるんじゃないかというほどぼろぼろになったところで、なのは本人がようやく登場する。これも、高町なのはというキャラクタを徹底的に大事にして傷はつけないのだという意思表示だと思えば、妥当だ。

ティアナ袋だたきから締めに至る流れを、まとめるとこうなる。

  1. シグナムが「軍人」としての立場から、厳しいことを言ってティアナを突き放す
    お客さんの何割か(特にティアナに感情移入してくれている人たち)は、道理としてはわかるけれど感情として納得できない。
     
  2. シャーリーが前2シリーズの回想をひきあいに出して、お客さんの感情として今回の展開を納得してもらう。
    ほぼ全員が昔は敵だったことで新人全員を驚かせ、無茶をするとダメなんだとなのはの失敗を出すことで、ティアナを追いつめる
     
  3. なのはが、これまでの訓練展開についての真意をようやく話す。
    「わたしの教導、地味だから」と、なのはもあやまる。
    しかも、ティアナのいいところを教えたうえ、彼女の考え方は間違っているとは言えないと、クロスミラージュの近接格闘モードを解除してティアナを肯定する
     
  4. 物語の流れとしてこれが正しいことを提示するため、ティアナが『ストライカー』というタイトルにつながる目標点を、なのはからの受け売りとして新人たちに伝える。

やはり、理にかなって妥当な配置だ。
「突き放し」「追いつめ」「肯定し」「フォローする」かたちにケチをつけているわけでもない。論理的な構成というのは、どんな厳しい感情をなぞる流れでもこうした段階を踏むものだ。感想サイトをすこし回らせていただいたが、9話は実際きちんと効果をあげていると思う。

今回の9話で、リリカルなのはStrikersの構造自体、あらたな局面をむかえたと言っていい。
8話までの「結局スバルとなのはのどっちがメインなんだ?」という問題には整理がついた。
「メインはなのは」ということで、一本化したとみていいと思うからだ。
スバルにメインをあずけるなら、このどん底の状況からはいあがるため、「先輩の話をただ聞くだけ」ではなく、ちいさなものでもふたりの力で何かをつかませるべきだった。

けれど、一番あぶない方向に流れたような気はする。
新人4人までなのは肯定派になったことで、人数配置が極端な偏りができてしまったせいだ。
この偏りがなぜあぶないかというと、キャラ人数とそれに付随する出番数の暴力で、なのはさんがどんな無茶を言ってももう物語的にそれが通ってしまうから。

上に、「なのはとティア(新人)がモメていた問題なのに、その解決をシグナムとシャーリーがやってしまった」と書いた。
なぜそれで納得感が出て機能したかというと、これも彼女たちが「なのはの理解者で彼女の本当に意に添わないことは一切しない」人物だからだ。
8話まででろくにしゃべらせなかった、色のついていないキャラクターにそれをやらせたのは、キャラクタの動かし方としては非常にうまい。
けれどそれ以上に、「色がないものは”なのは色”という雰囲気が、物語の中で一定の機能を持つ(解決はシグナムとシャーリーでもよかった)」こと自体、非常にかたよっている。

9話のまとまりは、”機動六課自体がなのはファミリーで、なのはの意思が肯定されている世界に見える”ことに起因している。
たしかに、今のかたちに物語を整理しておけば、13話以降で物語が急転しても、スバルやティアにも、なのはを代弁してもらう」ことだってできる。
けれど、実質的に物語はどんどん内向きに縮んで、抜本的な改善にはなっていない。
このままでは、役割が似てしまった新人4人が、キャラクタの個性まで圧縮されてキャラを生かせない展開になるようで、あやうく思える。
でなければ、機動六課内部の話が多いまま続くように思えるのだ。

整理すると、変化の方向を定めた9話に引っかかっているのは、こういうことなのだ。
前シリーズまでとまったく同じ流れで進められるとは思えない、「教官」と「新人」という複雑なかたちで、『Strikers』の人間関係は配置されている。
なのに、結局、前シリーズまでと同じ構図で物語を進めるような流れを、この9話でつくってしまったように見える。
これは、せっかくのチャンスに、7話まで物語進行をのろくして物語をちいさくしていた問題を、解決できなかった(放棄した)ということではないか?

現状、ダイナミックな人間関係の変化は、機動六課をまっぷたつに割るか壊滅させるかくらいの急展開を起こせないと無理だろうなとは思う。そんなベタな予想を、いい意味で裏切ってくれる素晴らしいサプライズがあることを、実際、本当に期待している。

最初に書きましたが、ひとつの話としてはたぶん『Strikers』で一番しっかりした話になっていたと思います。
ここから13話までで、どんな”機動六課”の姿をお客さんに見せられるかが勝負っぽいですね。

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天元突破グレンラガン 9話『ヒトっていったい何ですか?』

『グレンラガン』7話、8話の展開は神がかっていた。
それまでの地上の荒廃した様子を描いていた展開を、たった30分で一気にクライマックスのテンポへ急変させてしまった7話。
そして言うまでもなくこれまでの”シモンとカミナ”のドラマの絶頂だった8話。
この先どうするのかと思ったら、9話は完璧にそれを受けきって、次なるおおきな展開へつないでしまった。

前半はひたすらシモンの空回りとバラバラの大グレンの様子を描き、カミナという男の喪失を描くのに時間をかけた。後半は、きっちり同じ流れを引きずりながら、新しいドラマの展開をひらいた。
こうやって書くと簡単だけれど、問題はそんなに単純ではない。
シーンひとつひとつに”換えがきかない”ため、それぞれ本当に必要なことを、描くべきときに完全にやりきらなければならないからだ。

絵的なイメージとして前半は長い長い雨、ニアに出会ったそのとき空から光が差した絵作りのトータルイメージもいい。9話でのカミナを失った落ち込みと、新しい物語をひらく新しいヒロインの登場のターニングポイントとして、印象的なものになったはずだ。
シモンの落ち込みに正当性を持たせるために、8話でシモン自身の弱さが”アニキの死”という結果につながったこともきいている。
そして、8話冒頭でシモンをヨーコにときめかせたのもいい。「女性で揺れて、女性で立ち直る」というのは、男性客にとっては納得がいく流れだし、新ヒロインのニアの役割も『グレンラガン』全体の中で明確になるからだ。
そして、9話ラストでは、まだカミナを失ったどん底は「ラガンの変調」というかたちで強調され、復調のきざしすら薄い希望でしかない。
『グレンラガン』という物語全体を見ても、カミナの存在を、喪失のあとも大きくあつかい続けていることには大切な意味がある。

実際、いつかは『グレンラガン』という物語は、カミナを置いてさらに遠くへ行かなければならないのだけれど、そのときのため印象は残していなければならない。
主人公シモンと一緒にお客さんに旅をさせる物語だからこそ、振り返ったときそこに残っている思い出は、キラキラしているように描かれきっている必要があるのだ。

7話、8話、9話の展開のなにが神がかっていたかというと、結局ムダなシーンをひとつも作らなかったことだ。
脚本の中島かずき氏の手腕は、アニメーション脚本以上に(実際に人が動くうえセットにより背景の制約がある)舞台脚本の人だけに、さすが、本当に確かだ。

必要そうなシーンを全部作ってしまって詰め込むのではない。
本当に必要なものが何なのかをしっかり考えて、描くべきものをまず絞る。そうすることで、シーンも物語もすっきりまとまって、結果的に伝えたいものを締まったかたちて提示できるのだ。
逆に言えば”換えがきかないシーン”を作るためには、あまりせこせこシーンを切り直しているわけにもいかないのだ。情報を増やすと、印象的になるべきものが、そこに埋没するのだから。
「物語をシーンで構成する」ということは、つまりこういうことなのである。

行程的に言うと、こうなる。

  1. 30分なら30分と決まった尺の中で、なにを描けるかを考える。
  2. この話でやりたいこと、前後の物語の流れからやっておくべきものをきっちり考えきる。
  3. それをどう配置すればいいかを練って練ってベストなかたちを探す。
  4. それを最後に物語のかたちにまとめて、統一をとる。

物語づくりの基本の部分なのだけれど、これはそうそうやりきれることではない。いや、いい加減になってしまう。
なぜかというと、かけられる時間は有限で、4行程踏まなくても同時並行して1度にできてしまうからだ。
けれど、きっちりやっているモノとの間には確実に差が出てしまうのだなということを、うんざりするほど明確にしてくれた7、8、9話だった。

実際には、ひとつおおきな山を作った後の「次への移行期」というのは、苦労するものである。
次に置くものは刺激として盛り上がりきらず、かといって前の山を捨ててしまうと、余韻もなく、物語全体としての物語の積み上げも弱くなる。

これを、ドラマ的要請で8話の山をつくりきったあと、9話で、「設定的要請としてお客さんにこれまで秘密にしてきたことを一気にあかす」という別種の山をつくることで、のりきらせた。
これが、どういう効果を働かせたかは、実際、今現在、お客さんの中にはいっている印象を胸の中に聞いてみたらいいと思う。
カミナのことは印象に残っていても、ヴィラルのことはそこまで印象に残っていないはずだ。この効果をきわだたせるために、9話前半の”大グレン団”視点のシーンでは、8話で名前を出した螺旋王たちのことに一切触れていない。
そして、『グレンラガン』世界の中でのカミナの位置づけを考えたとき、彼は実は「ヴィラルと互角」(8話)の人でしかないのである。
そういう組み立てを持つことで、お客さんの中でセリフも説明もなしで「物語は一段階おおきなステージに立ったのだ」ということを提示してしまったのだ。

ハリウッド映画などでよく使われる三幕構成をものさしにすると、7話から8話の展開が第1幕のクライマックス部にあたる。
(三幕構成については、興味のあるかたはこのあたりでも参照してください。下の方が三幕構成の話)
8話の、カミナ死亡が確定したあたりが第1幕の切れ目になるターニングポイント。
9話からが第2幕の開始になる。
日本のアニメーションは、13話1クールの切れ目のところで物語を切ることが多いので、めずらしい構造を持っていることになる。
たぶん『グレンラガン』の全体構成的に、13話付近には、ミッドポイントが発生することになる。かなり大きな転換点になるはずなので、どういうものを持ってくるのか楽しみだ。

おそらくカミナと同じ役割にたつキャラクタを、『グレンラガン』はつくらないだろう。
9話からの新オープニングのラスト、シモンが腕にマントの切れ端を結ぶそのカットが示すように、その喪失した穴はシモンが埋めてゆくものなのだ。
そして、8話のあの盛り上がりの中、カミナが最後にくりかえしてお客さんに提示したセリフが、これからも大きく立ち上がってくる。
「俺が信じるおまえでもない。おまえが信じる俺でもない。おまえが信じるおまえを信じろ」

本当に、成長物語の”アニキ”の描き方として、カミナの位置づけはすばらしかった。
それは完璧な理想像ではない。カミナがひるんだり汗を流したりするシーンは、実際よく描かれている。
その彼が遺したことばにたどりつく過程ですら、シモンを認める、つまりカミナ自身にとっては自分の限界を知る過程の中のものだった。(7話)無言で、よき”アニキ分”としてそれにカミナは対面し続けた。
そして常に、シモンと同じようにおそれ、そして”カミナなりの方法で”シモンよりちょっと前向きな彼なりの答えを出してきたのだ。
そんな弱さが描かれているからこそ、シモンはその背中を追いかけてゆける。そして、その道はいつしかカミナではなくシモン自身の道であり、同じ道を”アニキ”といっしょに歩いていることを知るだろう。
”成長の物語”として、『グレンラガン』のデザインは卓抜している。

本当に、アニメーションは集団作業だとはいうけれど、それはつまり「いろんな方向からの高い能力が、集まってひとつのより素晴らしいものをつくる」ということなのだ。
それは理想論でしかないのだけれど、『グレンラガン』は今のところ、そういうものをお手本のように見せている。

見事な仕事というのは、そうあるものでははない。
いつもは話が終わるとさっさと別作業に移っているのだけれど、この9話を見終わったあとは、録画ファイルが終わるまで画面の前から動けなかった。

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[論評]『リリカルなのはStrikers』はなぜ苦戦しているのか(2:計算のち密さと、実行のズレ)

※このエントリを書いた2007/5/25現在、blog主は8話『願い、ふたりで』までを視聴。
そこまでのネタバレがはいっています。

(もうちょっと期間をあけるつもりだったのですが、世界卓球の時間ズレで『ギガンティックフォーミュラ』8話を見逃しまして、忘れないうちに書ききっておくことにしました。)

■前回のエントリ
[論評]『リリカルなのはStrikers』はなぜ苦戦しているのか(1:シンプルな人数の問題)

『リリカルなのはStrikers』は、現状、前二作にくらべて苦戦気味だ。
その理由は、キャラクタが多すぎ、しかも全員を均等に描こうとしているため、物語が機動六課というせまい世界でぐるぐる回ってしまっているせいではないかというのが、前回の簡単なまとめ。
「いやちがうよ」というかたは、一度前回エントリを見てみてやってください。上の文は、自分でも乱暴だと思うほどかいつまんだので。

なのでこのエントリは、『Strikers』は、どうして丁寧に描くのがしんどい人数配置なのかというところから。

キャラクタ配置には、意図がこもっている。
実際の制作が動き出した以後なら、ままならないことも多々出てくるかもしれない。
だが、キャラ配置は計画段階ですることだ。その段階で意図と勝算があやふやなものは、奇跡でもない限りふにゃふにゃで終わってしまう。
だから配置はお客さんにどう当て込むかや、制作者が何をやりたいかを考えてつくりこむ。
『Strikers』でも、それはよくでていると思う。

○本当に、無駄なキャラクタは存在するのか?

ずっとキャラクタ数のことばかり話題にしているが、『Strikers』のキャラクタ配置は非常に理にかなっている

まず、現状まだあまり有効に機能していないが、分隊制はいいアイデアだ。
スターズ分隊(なのは分隊:スバル、ティア)は、物語中でドラマの中心を受け持つ前二作での「なのは的」な役目を負う。
ライトニング分隊(フェイト分隊:エリオ、キャロ)が、特殊な背景を背負った「かつてのフェイト的」な役目を負っている。
実際、これはスマートなかたちだ。

  • 隊長の印象にあわせてお客さんのイメージを束ねることで、新キャラの役割や立ち位置をわかりやすくする効果を見込める。
  • 後々に話を急加速するときを予期して、敵であるスカリエッティに直接かかわりそうなキャラクタを「同じライトニング分隊(フェイト隊)」とまとめてある。展開上スピードがほしいとき、よけいな理由付けや説明を省ける。

キャラクタも、一キャラ単位で見ていくといい配置だ。
特にキャラクタの見せ場をどうつくるかは、パズルのようによく考えられている。
全部を並べると、さすがに長くなりすぎるので、なのは隊だけを例としてあげてみたい。

なのは分隊

  1. ヴィータ(副隊長)
    なのは客の一定割合はロリコン客だ。今後もおそらく物語の主軸としてぶん回されてゆくスターズ隊に彼女がいるのは、ロリコン的にうれしい。
    blog主も実際、ロリコンだからうれしい。
     
  2. スバル
    これまでの『なのは』にはいなかったショートヘアでボーイッシュな女の子。
    「まっすぐ少女だが、なのはとタイプがちがう」ことを打ち出せている。
    格闘戦の人であることも、”なのはとはちがう”という点で統一がとれている。
     
  3. ティアナ
    『なのは』にはめずらしい、劣等感を背負ったツンデレキャラ。
    実は、彼女がメインメンバーで唯一高速移動手段を持たない「二本の足で歩くしかない」キャラクタであることも、キャラクタに背負わせる物語によく合っている。
    空も飛べず、防御もできず、火力もイマイチなのに、なのはと同じポジションで比べられる」キャラクタの見せ場的には地獄の立ち位置。
    だからこそドラマ的にはおいしい、今シリーズのキーキャラクター。
    ティアナとスバルを、なのはとフェイトがなれなかった”友だちとはちがう相棒的なコンビ”として成長してゆく(スバルになのは離れさせてゆく)成長物語として、非常にいい配置。
    あと、なのは客の一定割合は、百合もののお客さんだ。blog主も百合好きだからうれしい。

論評のわりにblog主の嗜好が多くはいってしまったが、我慢してやってほしい。
キャラクタがどんなお客さんを狙って配置されているかを語るのには、好みの問題をまじえた(話者の好みもはっきりさせた)ほうがフェアだとblog主は思う。頭だけでやるのは本当に難しいし、キャラクタのよしあしは好みに左右される部分が大きいからだ。

問題は、せっかくのキャラクタを設計したとおりに動かす空間がないことだ。すくなくとも、キャラクタのポテンシャルを描ききる振り割りは、まず無理だ。

キャラ数の多いとき、一般的に一番よく使われているのは、「オールスターメンバーが、かつてない強大な敵にいどむ」ような(『スーパーロボット大戦』的な)物語を作ってしまうことだ。
絶対的に倒さねばならない敵を設定して、それとどう戦いどう悩むかというわかりやすい方向性を指定してしまうのである。
だが、これは『なのは』らしくない構図だ。8話までを見た段階では、その選択をしなかったように見える。

けれど、物語をわかりやすくする定型を使わなくても、その人数を動かす必要はある。同時に、配置したキャラクタで、『なのは』らしい物語を描く必要もある。
おそらく機動六課というせまい範囲内で物語を回しているのは、その両立策でもあるのだ。
敵(立ち向かうべきもの)も味方も機動六課の人間なら、世界を広げずに『なのは』らしい物語を描くことができるからである。
『Strikers』は26話あるから、本格的な”外敵”との戦いは、後半に集中している構造なのかもしれない。

だが、世界が広がらないおかげで、はやてなど、事件の関係者の元を回るという名目で、ひたすらキャラクタ背景と設定説明ばかりしている。
登場シーンはたくさんあっても「このキャラクタでなければ言えないこと、できない行動」という、キャラクタを立ててくれるシーンはむしろ少ないのだ。

『Strikers』は、スキのない人員配置で、機動六課という無敵戦艦をつくりあげた。なのに、その活躍に期待をあおっておいて、無敵戦艦内部でどうこうという話をずっと続けている。
結論としては当たり前のところに落ち着いてしまったが、キャラクタ数の多さ自体が、現状の苦しさの中心ではたぶんないのだ。多すぎるキャラクタをあつかった結果としての物語展開と、お客さんの期待との間にズレがあるということなのだと思う。

○なのはとスバル(物語の中心となる軸線のぶれ)

『Strikers』の苦しさを考えたとき、ブラックボックスのように気持ちの悪い感じに残っているものがある。
「配置段階で、もうきびしさはまる見えなのに、どうして資源を一極集中して状況を打開できていないのか」という問題だ。

最後にそこに触れて、2エントリにもわたった長文を終わろうと思う。

単純に言うと、元凶は、なのはさんなのだと思う。
主役がスバルとティアナで、なのはは後方にひかえている頼れるボス役」なのか、「なのは自身を主役として、のびてゆく若い子を見守る話」なのか、明確な提示がない。
それは、視点の中心という意味での主役を、どっちにとればいいのだかお客さんに打ち出していないということだ。物語にドライブ感が感じられないとしたら、その理由はたぶんこれだ。

物語をみると、『Strikers』の第一話はほぼスバルの物語で、現在のところ8話までは、新人たちの成長物語を中心に動いている。
新人隊員が必要になったのは、基本的に『なのは』が成長物語であることと、Strikersが26話の長丁場だからだと考えられる。

  • Asで、なのはたちの実力をインフレさせすぎたので、このままインフレの流れにのせるとドラゴンボール化してしまう。弱い新人がいると、なのはたちの実力がどの程度なのかを比較して見せ場にできる。
  • なのはたち個人の問題は、これまでの2シリーズで結構片づいてしまっている。だから、ここからあまり掘り下げすぎると、『なのは』らしくないレベルまで話がドロドロしてしまう。
  • なのはAsのエピローグで、なのはたちをえらくしてしまった。『なのは』らしい成長物語を描くには、もう彼女たちを管理職にするほうが自然だった。
  • 管理職の成長物語よりも、新人の成長物語のほうが、見ていてわかりやすい

そしておそらく『Strikers』の物語は、基本的にこのままスバルの成長として進む。
圧倒的に実力差がある隊長たちが不用意に出張ると、新人たちの見せ場は弱くなり、印象など簡単にかすんでしまうからだ。

だが、複雑な構造をとっているのに、物語中で、「あきらかにスバルが主役である」ような提示はできない。
この番組のタイトルが、『魔法少女リリカルなのはStrikers』だからだ。

お客さんにとっての、新人4人の商業的価値は、番組1話開始時点では限りなくゼロに近い。
だから、なのはさんを画面に出さないわけにはいかない。

けれどキャラクタ配置から自然に展開をのばせば、物語を引っ張るのは新人たちだ。問題は、お客さんは、タイトルからの初期印象では、まちがいなく、なのはが主役だと思うことだ。
裏返しの論理なのだが、だからこそ『Strikers』は、新人4人を描くシーンを多めにつくらなければならない。
既存のキャラクタ(隊長、副隊長)には、すでに前シリーズまでのお客さんがついているが、新人たちはこれからキャラ立てをしなければならないからだ。
同様に、たとえば7話『ホテル・アグスタ』で、新人たちがアクションをするとき隊長たちドレスアップしてオークションに出ていたように、出番をよけなければならない。
同じように出番をとって、なのはたちを活躍させると、あっというまに新人がかすむからだ。

自然、隊長たちをアクションさせるのは、訓練の中だけになってしまう。
やっぱりどんどん、物語は機動六課の内部に向かって閉じていってしまう。しかも、この遠慮の構図は、物語にいい影響をおよぼしていない。

  • なのはたちはろくにアクションができないので、やっぱりドライブ感が落ちる。
  • 画面上に出るシーンも、隊長側でよけた結果、アクションに関係ないものをたくさん作ることになるため、物語の印象を集中しにくい。

このせいでひとつの方向性に物語を集めることができずに、物語資源の集中がとても難しくなっているのだ。
おそらく問題の起点は、新人4人を配置した必要と、リリカルなのはStrikersという作品を作った商業的理由が、一本のラインで結ばれていたわけではないことだ。それがずっとたたり続けているのではないだろうか。

全員が主役的な物語はたくさんある。なら、どうして『Strikers』ではこんなに混乱(新人の立ち位置がよくわからない)が目立つか。
たとえば、このblogで感想を書いた『Yes!プリキュア5』も、5人全員が主役だ。プリキュアシリーズの旧作の三作でも、2人の主役を均等に描いていた。だが、それでも主役が複数いることはまったく問題にならなかったのだ。
ふたりは常に同じ学生の立場だったからだ。
だが、なのはとスバルは、指揮官(管理職)と兵隊(新入社員)でまったく別の立場なのである。
前のエントリの内容にも関わるが、観客にとっても、指揮官と兵隊に同時に感情移入することはむずかしいのだ。

Strikersの物語は、流れとして大きく新人の成長物語をやっている。出番をさいて登場させるということは、お客さんからはそういう物語が存在するように見えるということでもある。
だが、同様に、おそらくはお客さんの期待にこたえる意味で、指揮官であるなのはもしょっちゅう画面にあらわれる。
ふたつの立場からの物語が同じくらい画面に出てくるから、物語が二本並行しているように見えるのである。

では、どうしてその二本を、強引にでも一本にまとめる流れになっていないのか?
全体像を知らない客視点からは、現状、「立場がちがうスバルとなのはが、物語を引っ張る主役」に見える。
だからそのふたりに、一丸となって同じ敵にぶちあてさせる展開だってあり得たはずだ。
きっと、純粋にスバルたち新人のキャラ立てだけを考えても、訓練を続けるよりも、敵に直接ぶつけたほうがやりやすい。
けれど、「歴戦の隊長(老師)が後方にでんとひかえて、結成したばかりの新人だけで強敵と戦闘」という投げっぱなしは『なのは』らしくないのか、これも選ばれていない。

あるのはひたすら機動六課という組織の中だ。
だからこそ、お客さんは、新入社員と新米管理職の、どちらを視点の中心に置いているのか、よけいにはっきりしなくなってしまう。
そして、ここが混乱の核だと思うのだが、純粋な組織のドラマでは、管理職に感情移入して気持ちがいい物語と、新入社員の成長物語を追いかけて気持ちがいい物語は、客層が微妙にちがうのではないだろうか。

8話までの段階では、やはり『Strikers』の軸足はぶれているように見える。
だが、ぶれているから、かならずしもダメだというわけではない。
実際、8話の、なのはさん制裁シーンはショッキングで驚かされた。6話の変身ラッシュのような、明確なみどころがあるときも楽しめる。
問題はだらっとした展開のとき、その裏にどんなドラマを楽しめばいいかわからず、本当にだらっと時間が流れてしまうことだ。
物語前提とは、全体像をある程度イメージさせる(あるいは期待や不安をもってもらう)とき、本当に強い力を発揮する。全体像の姿がぶれることが、単純に、必要な物語前提を読み取りづらくさせているのである。

そして一極集中も難しく、物語は難しい状況にあるのに、機動六課の中だけでも8人もの前線と後方のメンバーがいる。
そして敵であるスカリエッティたちも、8話現在ほぼ手つかずで残っている。
『Strikers』という物語は、あふれるほどの可能性を初期配置していた。
だが、展開がふくらむ豊かな配置を作ったからこそ、実行段階で「ぴたりとくる」選択を選ぶのが至難になってしまっている。配置上のわずかなズレを補修することすら、ほかにやることが多すぎて手がまわらない。

どんなに豊かに配置しても、選んで画面上に出せる物語はひとつしかない。
さすがに、配置が、ち密すぎたのではないだろうか。

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[論評]『リリカルなのはStrikers』はなぜ苦戦しているのか(1:シンプルな人数の問題)

※このエントリを書いた2007/5/23現在、blog主は8話『願い、ふたりで』までを視聴。
そこまでのネタバレがはいっています。

『リリカルなのはStrikers』は、現状、前二作にくらべて苦戦気味だ。
原因の所在はたぶん、もう明確だと言っていいと思う。
非常に人間関係が複雑だからだ。

この複雑さが『Strikers』の物語にどういう悪影響をおよぼしているかを、端的に見るいい方法がある。
本編が、どういう画面を作っているかをチェックしてみるのである。
ここまでの物語の中に、機動六課メンバーとその家族以外の人間がほとんど登場してすらいないとわかるはずだ。
つまり、機動六課の中で話が完結して、閉鎖してしまっているのだ。

なにを説明するより、機動六課の、物語を引っ張るふたつの分隊を書き出すだけでいいと思う。

スターズ分隊(なのは分隊)として、
隊長:なのは
副隊長:ヴィータ
隊員:すばる・ティアナ

ライトニング分隊(フェイト分隊)として、
隊長:フェイト
副隊長:シグナム
隊員:エリオ・キャロ

8人もいる。
指揮者である、はやてとリーン、ほかバックヤードのメンバーについては触れない。
このエントリは、『Strikers』の人間関係の複雑さを問題にしていて、彼女たちの存在がいっそう物語に複雑さを増していることは、文章をさかなくても明確だからだ。

シリーズが進んで人数が増えたアニメはたくさんあるけれど、それと比べてすら『Strikers』は苦しい。
それは、前作から十年で変化・成長したキャラクターと、新キャラクターを一度に出し過ぎたからだ。
情報量の制約を考えると、『Strikers』は、副隊長である守護騎士3人+犬を、後半13話以降で登場させるくらいのほうが平和だった。

しかも『リリカルなのは』のシリーズは、ひとつ、多くのキャラクタを物語で扱うのに不適な特質を持っている。
「かませ犬」を作っていないのである。
実は、ドラゴンボールのヤムチャしかり、”かつての強敵、今はかませ犬”はバトルものでセオリーとして置かれてきたものだ。”名負け役”というのは、キャラ人数が増えてしまった大シリーズの中では、けっこうおいしい出番なのである。
7話の『ホテル・アグスタ』の話で、副隊長たちに”負け役”をしてもらって、しばらく戦場に出られないくらいボコボコになってもらってよかったのではないかと、個人的には思う。
敗北は、以下のメリットから、物語を”六課の外”に振るチャンスではあったからだ。

  1. 本格的な初登場のインパクトに合わせて、敵の強大さをアピールできた。
  2. お客さんにサプライズと、ひよっこが敵に挑まねばならない危機感を提示できた。
  3. はやてたち後方メンバーが一時的に表に出なくなる理由づけや、登場キャラクタをしぼりこむ理由づけになった。

けれど、Strikersが選んだのは、7話で外敵との戦いでは顔見せだけに終わり、8話で”六課の内部で”ティアが挫折する物語だった。
なのはStrikersでは、「負け役の出番」を、あえてつくらなかったのだと思う。
それは、『なのは』シリーズが、本質ではバトルものではなく、「がんばって敗北者になる人はいない」というやさしい物語だからだ
外部の人間に負けさせるよりも、機動六課内部の人間相手に挫折させたほうが、物語的にコントロールがしやすかったということではないかと思う。

それは現実的な選択だし、なのはらしいかもしれない。けれど、レリックという面白そうな謎を”外部”に提示しておきながら、世界は”内部”へ向けてどんどんせまくなっていることも確かなのだ。

○『問題解決能力を持ったキャラクタ(つまり主人公)』が、多すぎる

『なのは』の話をしているのに他作品の話を持ってくると、さすがに怒られるかもしれない。
けれど、Strikersにおけるキャラクタのゴチャゴチャ問題は、最近の作品だと『コードギアス』の序盤~中盤の構造とも共通している。
『コードギアス』のほうでは、主人公的に物語を推進する人物として、ルルーシュとスザクというふたりの人物がいた。かつ、ふたりは、「学校という共通の生活圏を背景として持ち」ながら、それぞれが「もうひとつの顔」で、「同じ敵にちがう方向から立ち向かっていた」ため、スザクのほうがお客さんにウザがられる傾向があった。
”問題を解決する能力を持った人間”(つまり物語上の問題を解決してくれる人である主人公)が多すぎると、物語が提示する問題の数は一定なので、出番がかぶってしまうのだ。
つまり、ルルーシュが解決した問題を、同時にスザクが解決することはできない。それは、キャラクタを魅力的にするための活躍の場をとれない、割を食うキャラが出てしまうということだ。

逆に、極力割を食わさず、誰も”あきらかな脇役”にしないよう均等に出すとどうなるか?
答えは、現状の『Strikers』だ。
実際、こんな無茶な人数を使っているわりには、いいバランス感覚で物語もキャラクタも書いている。現状の『Strikers』に近い描き方をしているのは、多くの登場人物が主役のようにふるまうタイプの海外連続ドラマがあげられる。だが、あちらは一時間番組で、『Strikers』は30分だ。時間がたりなさすぎる。

無理は現状すでに出ている。
「捜査を担当」し、なのはとはちがう役割を割り振られたはずのフェイトが、8話現在まったく捜査をしていない
もし『Strikers』の発表メディアがゲームなら、現在やっているレリック事件についての情報は、短くてもフェイト隊に実際に捜査をさせることで提示したはずだ。そのほうが、フェイトのキャラクタも描きやすいし、「新人四人」を横一列に並べるのではなく「エリオとキャロ」というふたりを特別に書き込むこともできた。
一話あたりの物語の尺さえとれれば、たぶんもっと物語は広がったのである。

だが、アニメでは、その気になればページ数あたりの情報量をあげやすい小説メディアや、情報量の制約が実質ほとんどないゲームでのように、全部書いてしまう力業は使えない。
つまるところ、30分番組26話ではなく、1時間番組13話のほうがしあわせだった人物配置なのかもしれない。ちょっとずつキャラクタをつまむには、配置がたぶん分厚すぎる。

30分番組で大人数を同時に主役のように振るまわせるのは、物理的にほとんど無理だ。実現しているとしたら、それはたぶん精密機械のような熟達の職人技か、物語の神様がおりて奇跡を起こした例外中の例外なのだ。

キャラクタの初期配置数が、なのはらしく書くにはハードルが高すぎるものになっているというのが、問題の中心なのだと思う。
おかげで、複雑すぎる問題をどうやりすごすかで流れてしまって、キャラクタを転がすところまで至っていない。
8話でようやく転がる前兆が見えて、この先がまさに正念場だ。むずかしいのは必要な期間、なのは、ティア、スバル以外の全員を空気キャラにしておく思い切りのほうかもしれない。本当に、整理してまとめれば3話に1回、2~3分のシーンをとるだけでよさそうな事件の進展情報を、なぜか毎回律儀にキャラを変えながらお芝居に組み込んでいる状況なので。
負の方向の心理の描出は、なのはシリーズの見せ場だと思うので、ここからがんばってほしいと、これはすなおに思う。

ただ逆に、だったらなんで丁寧に描くのがしんどいキャラ人数にしちゃったんだという、最初の問題に戻ってくる。
これも思うところはあるのだけれど、いい加減長文になったので、また別の機会に。

このエントリに関しては、言いたいことがあるかたもおられそうな気がするので、多少ネガティブなものでも好きにコメントを書いてやってください。
個人的に『なのはStrikers』のキャラクタの多さを、皆様がどう感じておられるのか(それともあまり気になっていないのか)、知りたいだけなのですが。

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魔法少女リリカルなのはStrikers 8話『願い、ふたりで』

なのはさんはいったいどうしちゃったんだろう。

5月に、プリキュア5、グレンラガンといったシナリオ手腕が確かな話をたて続けに見てしまったイメージと比べてしまっているのだろうけれど、ちょっとよろしくない。
このblogを開設して以来の、ネガティブな記事を書く。現状の『Strikers』が好きなかたには、本当にもうしわけない。

○前提作りが弱くないだろうか?

9話の予告を見る限り、どうも来週には、なのはさんの失敗なり敗北が描かれることになるらしい。
でも、それは一般的に言うなら「後出しじゃんけん」だ。
最初からそれは設定上の基本にしていたし、コミックでも触れていたじゃないかと、制作者側は考えているかもしれない。けれど、この『Strikers』単体で前提を作っていなければ、やっぱり初見のお客さんには「後出しじゃんけん」だ。

基本的に、上司部下の関係っていうのは、無条件に上司が強いものなのだ。特に、軍隊のような戦闘力を持つ集団では規律が強く、上司の決断で部下は最前線にだって送られる。
上司は部下をたたきつぶせてあたりまえなのだ。
軍隊モノなんかでこれをやるときは、こんな感じだ。

  1. 鬼軍曹の古傷や傷の後遺症やなくした親友の写真などを、ビジュアル的にはっきりわかるかたちでお客さんに見せておく。
  2. その後で、「一生懸命でなんとかなると思っていたら死ぬぞ」と、新兵をたたきつぶす。
  3. そして、落ち込む新兵たちに、謎として提示されていた(1)の理由が語られる。それによって、同じ失敗を新兵たちはくりかえさずにすみ、経験を伝えられる組織はすばらしいものとして描かれ、新兵は軍曹に近づくような成長ができる。

そのくらいやっておいて、はじめて機能するシチュエーションではないだろうか?
なのはさんみたいに、美少女アニメの主人公として傷一つなく、しかも第一話から「エース・オブ・エーブ」と持ち上げられていたキャラクタがやるのは、リスクが高い。
9話にやるのだろうなのはさんのショッキングな話は、たぶん今回の8話以前にわかりやすい前提を提示しておくべきだった。

もうひとつ、前提のよじれに見えるものは、組織の描かれかたのいい加減さだ。
軍隊モノでは、前線士官役と軍曹役は、きちんとわけられていなくてはならない。
これは単純な慣例ではなくて、部隊となる組織自体がそういう性質のものだからだ。
軍曹は基本的に「乗り越えられる者」であり「先輩」だ。士官には、「戦場のもっと大きな大局の一部分である」性格が出てくる。つまり、部下に対して「死ね」というのが指揮官だ。ふだんは偉そうにしていても「あいつらだけじゃ頼りない」と一緒に死地にとびこむのが軍曹である。
指揮官が最前線に飛び込むのは、まさに道理を越えた大勝負、それ自体がひとつの見せ場なのだ。(ただし空軍はのぞく)
そういうストーリー類型があるよというだけでない。組織には、士官と兵隊の区別があるので、空気を出したいならそれは踏まないとリアリティが弱まるのだ。

きれいな役も、汚れ役も、なにもかもなのはに押しつけるのは、”組織”を描く書き方ではない。
『Strikers』では、第一話から機動六課という組織ばかりを描いてきた。組織なんてはじめから描いていないというつもりなら、それはそれでバランスがおかしい。
そもそも、『リリカルなのはStrikers』が組織を中心に描かれていることに、設定的な理由ばかりみえている状態で、あまり気持ちよくないのだ。つまり、それでお客さんが気持ちよくなるための、「組織でなければ描けない物語がある」ような物語的要求が、いまだ提示されていない状態なのである。

○もはや、話の基盤に「魔法少女」らしい最後のロマンすらないのではないか?

物語において、なにが前提だったかは、最終的な物語が出そろわないとわからないところがある。けれど、リアルタイムで見ていて「これまずいなあ」と明確に思う部分はある。

たぶん、序盤でティアのお兄さんの話を持ってきたのがよろしくないのだ。
これでは流れ上、最悪、ティアのお兄さんも、ティアと同じような失敗をして殉職したように見えないだろうか。
今回の終盤の展開で、なのはが「やさしく」見えないのは、たぶんこのせいだ。

これでは、ボコボコに負けた上に、キャラクタ的に持ち上げられるのはなのはさんであって、ティアは得をしない。

なのはが怒った理由は、実社会にてらすと、納得できるものを山ほど考えつく。

  • 部下へと、なのはは休みを削って自分が体得してきたノウハウを伝えようとしている。それが無駄になっている。
  • しかも、職場は戦場だ。失敗したときは、自分やたいせつな仲間の死といった、取り返しのつかない結果を呼ぶ可能性も高い。そういう仕事で無茶(スタンドプレー)をされては、上司としてフォローすらできない。
  • 今している試験も、訓練効果を見る機会にならない、無意味なものになっている。
  • 「こんなことはしない」という、前半でのティアとなのはの約束が、”約束”として機能していなかったことになる。

けれど、この実社会的な常識をとおすと、物語はロマンがなくなる。
スバルたちは十年死にものぐるいではたらいて、「仕事のできた先輩たちに追いつけてない」とようやく感じる程度の成長しか見込めないという枠が、丸見えではないだろうか?

現実はそんなものなのだが、そんな話を、果たしてアニメで見たいだろうか?

『Strikers』は、どんなお客さんに向けているのかがふらふらした、独自路線を走っているように見える。けれど、独自路線のものへの感想がネガティブなものになるのは、はっきりとまずいところがひとつあるせいだ。
なのはの過去を描いたって、お客さんの中で沈んだティアのイメージを回復することにはならない。
これだけの大負けをしたのなら、ティアというキャラクタを立てるには、「ティア自身の努力なり成長でそれを乗り越えさせる」必要がある。
けれど、『Strikers』は26話しかない話のうち、キャラクタの掘り下げもほとんどなく、すでに8話を使ってしまっている。
ほかにもキャロとエリオのことだって描かなければならない。
そもそも、せっかく動き出した本筋らしい話を、この流れでまた凍らせてしまっているのだ。いったいいつ本筋を動かすつもりなのだろう?

ネガティブな意見だけを置くのも気持ちが悪いので、現状の『なのはStrikers』に思っていることを、今晩(深夜)くらいから別エントリたてます。
……いくら「淡々とたれ流す」blogとはいえ、再読読者さんのきわめてすくない設置直後で、続き物の長文エントリもどうかと思いますが。

個人的には、7話までの遅々として話が進まなかった状態よりは、まだよくなったかもとは思います。

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Yes!プリキュア5 16話『こまち小説家断念!?』

すっかりグレンラガンの裏番組になりつつある『プリキュア5』だが、今回の16話は素晴らしかった。
個人的には、シリーズ最高傑作級だと思う。

アニメーションは奥行きの感覚が素晴らしく、スピード感もあり、一秒くらいで流れてしまう短いカットが本当に豊かだった。
止めるところは芝居で稼ぎ、そのぶん動かすところは贅沢な、リミテッドアニメーションの理想的なパターンと言っていいと思う。
プリキュアでアクションが格好良かった話は、本当に久しぶりだ。

○16話の物語の、素晴らしかった部分について

脚本は、後述する大きな穴がひとつあるのだけれど、それ以外は文句なし。
キーキャラクタであるナッツの事情をしっかり前提にとって、こまちの夢と失望の話を書きながら、ナッツとこまちが仲良くなる話。
かつ、もうすっかり忘れかけていたドリームコレットと王国の話を、ナッツとココのキャラクタの描き直しと当時に復習させてくれる話。
非常に射程距離の長い一話だが、パズルのようにテクニカルなアクションの流れとセリフ配置で、きっちりやりきってしまった。
こんな複雑な話が、ごく自然にするりと見れてしまうということ自体が、非常にたしかな技術のあらわれなのだ。

なにより素晴らしいのは、クライマックスの展開の無駄のなさ。複雑な話を、よくもこれだけアクションシーンの中でやりきったものだ。
特に、ドリームコレットがはげしい戦闘の中で飛んでしまって、「やさしさを利用されてパルミエ王国をほろぼされた」経験をもつナッツにそれを守らせ、それをさらに「気持ちをこめて書いた物語と絶望を利用された」こまちが守るという展開が、絶妙。せりふが邪魔になるアクションシーンに無理に説明ぜりふを入れることなく、必要なことを語りきっている。
今回の敵へのとどめも、めずらしくこまちの親友であるかれん。

「こまちの大切な物語を、土足で踏み荒らしたことを反省なさい」

実は『プリキュア5』の人物配置の中で、お姉さん役であるこまちに対して、対等な高さからこのことばがかけられるのは、かれんだけなのだ。ほかのキャラクタからだと、言われるこまちがキャラ的に損をしてしまう。
けれどこの話の中で、こまちは自分の書いた物語と絶望が利用されたことだけは無条件に怒っていいし、その怒りを「いいんだよ」と認めてくれるのは友だちであればこそなのだ。
言ってほしい場面で、言ってほしい人が、言ってほしい内容のことばをかけてくれる。
物語にとって、こんな単純なことが、どれほどの力を持っていることか。

○16話の物語の、光があたると必然的に出る影

今回は、細かい表情の表現も丁寧で、ほんとうによく行き届いた話だった。
ただ、ひとつだけどうなのだろうと思った点がある。
今回語られた「こまちの心情」を本当の意味で追いかけるのは、プリキュア5の主要なお客さん層(小学校低学年以下の女の子)には無理だ。

小説に限らず、「なにかを作る」ということは、厳しい。
”作ったもの”が相手を動かせなかったとき、相手の感受性やセンスを責めることができないからだ。”もの”が駄目だったとき、責任はまず無条件に作り手自身に返ってくる。
今回でいうと、こまちは自分の小説の評価が悪かったことで、悪い評価を出したナッツを責めることはできない。
逆に、なぜそんなことを言うんだと仲間に詰め寄られたナッツの姿を見ると、それまで自分の書いた小説がほめてもらったことすら「友だちだから」なのかと疑ってつらくなる。
そのナッツが責められているときの、こまちのつらそうな表情の意味が、プリキュアのお客さんである小学校低学年以下くらいの児童にはピンとこないと思うのだ。

しかも、最後の最後まで、のぞみたちはものづくりの苦労に近づきもしないし、実はナッツも『海賊ハリケーン』というこまちの小説をほとんど評価していない。
ただ、ポジティブ女王ののぞみが「ナッツは素直じゃない」と勝手に解釈しただけなのだ。
その一線の誠実さを、おとなの視線からは苦さとともに評価できる。けれど、子どもから見るとすっきりしないオチなんだろうなとも思うのだ。

「友だち関係の中での自分の位置づけ」は、人間関係があらわれる相対値の関係だ。仲がよければ高くなるし、けんかでもすれば低くなる。
だが、”もの”を作るということは、まわりに友だちがひとりもいなくても位置づけが出る、”もの”と相手が一対一の状態で試される絶対値の関係だ。だからこそロマンもあるし、夢にもなるのだと思う。
ただ、日常生活の中でこの”ズレ”を味わうことは、非常にすくない。
一貫して今回の16話では、ものづくりにまつわるこの特殊な感覚を土台にしている。
そして、安易ななぐさめはないし、こまち自身が持たない限り楽観的な展望すら一切ない。

その厳しさは、たぶん主人公ののぞみやプリキュアたちよりも、敵であるデスパライア(おとなの象徴っぽい)のほうに近い。
そのズレの感覚のせいで、この話は、本当によくできているからこそ評価しにくいものになってしまっている気がする。

グレンラガンはたしかによくできているけれど、最近の『プリキュア5』は、もうちょっとかえりみられていいと個人的には思います。

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ハヤテのごとく!8話『ネコミミ・モードで地獄行き』

今期の版権アニメは、本当に、丁寧につくられたしあわせなものが多い。
その中でも、アニメ版『ハヤテのごとく!』は、コメディとしての切れ味はいまいちだけれど、動いているキャラを見る楽しさでは今期の一、二を争うと、個人的に思う。

○キャラクタの描かれ方について

アニメ化で一番得をしたキャラクタは、ナギだ。
漫画では身長差の表現が演出まで昇華しきっていないケースが多いけれど、アニメではとても表情豊かだ。

一番特徴的なのは、ハヤテ視線でナギを見下ろす構図の多様さだ。
こんなに13歳の鎖骨を描くかというほど、角度を変え方向を変えてやってくれている。
次回予告でふたりで看板を持たせる演出など、本当に、ひとつひとつ身長差好きの胸に刺さる。監督はまちがいなくロリコンだと思うよ。

ナギの友だちの伊澄や咲夜も、ハヤテよりずいぶん背が小さい身長差キャラなので、漫画で多かった横に並ぶ構図では、ナギが身長差ヒロインに見えにくかったのだ。
アニメ版では、身長の低い3人を区別するため、ナギは近くから急角度で見下ろし、伊澄は近めだがナギのような身体接触がほぼない。咲夜に至っては、カメラ位置が遠く、顔がアップになること(クローズアップ)がほとんどない。
『ハヤテ』アニメは、こうしたキャラクタごとの演出プランのメリハリが素晴らしいのだ。

もうひとつ、うまいなと常々思っているのは、マリアさんを徹底して女性らしく格好良く描いていること。
今回の8話でいうと、ビリヤード中におしりを向けてボールを狙っていた構図。黒いストッキングまでしっかり描いていて、尻フェチ的にも、メイド服の下にもぐりこみたい足フェチ的にも印象深かった。
おとなっぽいポーズを作る人が他にいないので、これだけでマリアさんのみどころを間違える必要はないし、ナギとの対比もきわだつのだ。

今回の女装ハヤテでも、その丁寧さはぶれない。
きちんと肩幅が広くて胸板がたいらな、少年の体で描いてもらっている。逃げようとしているハヤテや、服を返してもらっていた半裸のハヤテは、どう見ても女の子に見えない。
ハヤテの女装だと知らないタマやクラウスさんのイメージシーンの中でだけ、しっかりまるみをおびた女の子体型に描く念の入れかたは、もはや執念だ。

○なにが重視されているのか

コメディとしてのテンポが、個人的に原作のほうが好きだからというだけではなく、やはりアニメ版『ハヤテ』はキャラクタ描写に比重が大きい作品だと思う。
原作どおりだと言われてしまえばそれまでだけれど、やはりコメディに針を振るなら、後半でも女装話をどこかでは引っ張るべきだからだ。
今回の8話は、物語的にみると「マリアがハヤテの真意を知りたい」ラブコメであって、構造上ハヤテ女装は完全に浮いてしまっている。たぶん、お客さんの反応で、8話に賛否両論あるとしたら、女装が物語のオチに関係ないせいだ。(オチに女装がからんでいると、女装がプラスでなかったお客さんの中でも「あれは笑いだったんだ」と納得感できるため。)

けれど、きっちり、女性キャラクタの見せどころを丹念に描き分けることに関しては、アニメが圧倒的に強い。
丁寧さが、女性だらけのキャラクタ陣を、それぞれ魅力的に浮き上がらせているのだ。
これは、アニメ版『ハヤテ』が、どんなお客さんに向けていてどこで勝負するのか、制作側に合意があるということだと思う。
本当に、成功失敗という枠ではなんとも言いがたいけれど、しあわせなアニメ化作品だと思う。

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らき☆すた7話『イメージ』

今回は、京アニのある種お家芸ともいえる、『夏の終わり』の話。
演出にもセリフをしゃべる時間にもぶれがなく、どこまでも安定している。

そういう手慣れた手法の影に隠れてはいたけれど、絵の止まりっぷりもすごかった。
らき☆すたの、最大の特徴は労力の省きかただと思う。

実際、らき☆すたは止め絵が多い。
ただ、止め絵の使い方は、たぶん従来作品に比べて格段にうまい。

それを支えている手法のひとつは、止め絵の「いつ止めて、いつ動かすか」のルールがわかりやすく整理されていることだ。

  1. クローズアップではなく複数キャラが画面にいて、効果音が鳴るとき、誰かが動く。
  2.    ( 同 上 )    、誰かがしゃべって注意をひくとき、そのキャラクタが動く。
  3. 背景音楽の切れ目では、なにがしか画面が動く。

「予期せず動きがない」ことには、お客さんは失望する。だが、止まっているのが基本でも、そこからの変化がおもしろければ、乗ってくれるお客さんは注視する。
実際、『らき☆すた』では、単一キャラのクローズアップを多用せず、複数キャラが画面にいる状態をつくる。お客さんの注視点を、キャラクタ大までちいさく制限することで、全体としての動きのない背景が目だたないよう工夫しているのだ。
スター俳優のクローズアップが多いハリウッド映画の絵づくりとは大きく違う、日本アニメ独自の手法としてこれから定着してゆくかもしれない。

もちろん、そんな視覚トリックだけでお客さんを引っ張るのは不可能だ。
動かないぶん、10~30秒くらいなら、一部分しか動かない基本一枚絵で勝負できる、きちんとした止め絵を持ってきている。
そして、動かすときは、動き自体がおもしろそうに見えるよう、カメラ位置や角度、緩急のつけかたに工夫をこらしている。

考えてみれば、動かない背景の中でちいさいキャラクタだけが動く構図は、キャッチーなあのオープニングから共通だ。ここから入れば、同じように特徴的な本編とも、違和感がすくない。

どんな世界でも、予算潤沢に見えない場所で工夫をこらして勝負している姿はかっこいい。

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セイントオクトーバー20話『ロリ救急!友情?同情?過剰に超看病!』

はじまったときは「ロリだけどゴシック(ゆがみ)ではないなあ」と思っていた今シリーズも、気づけばいい感じにゴシックに。
ゴシックロリータというのは、「頭蓋骨をどうやってチョコレートコートにくるむか?」みたいな醜と美の往還だと思うのだけれど、いい感じにそういうものになっています。
たぶん、本当のゴスロリ好きには「ちがう」と言われるのだろうけれど、アニメのお客さんに向けて入り口を広げたら、こんな感じになるのでは?

今回は、神父の看病話。
27歳と14歳の、年の差13歳でひっついちゃいそうな雰囲気が、ちょっとゴシック。
ロリキャラが学校の庭でトカゲを丸焼きにしてかじってるところも、冷静に考えてみると受け入れられるのがおかしいゆがみっぷり。
そして、金髪美青年神父の背中に刻まれていた、大きな傷があらわになるところもゴシック。ふつう、こういうときは傷口を出さないものなのだけれど、あえて醜い感じに出してしまうあたりは、やってくれます。

うまい感じに、ゴシックな記号を描線のすっきりした萌え絵の中に滑り込ませているのは、長い目で見ると強い雰囲気作りです。物語も、萌えやバカ話とえげつないものの間の往復。
1話2話あたりで視聴をやめてしまった人も多いでしょうが、即切りしたかたや未見のかたは、14歳の女の子にさりげなく人殺しをさせた5話まで見ることをおすすめします。

『セイントオクトーバー』の作風って、ゴシック記号とロリ記号(ケーキとか)が乱れ飛んで、ほかでは見られない絵をたくさん作ることだと思います。
実際、これ、本当にいい意味でひどい。たぶんアニメふうのデフォルメ萌え絵やバカ話を抜くと、U局でも放送できないものになり果てます

そうそう、神父と探偵の、男の友情はかなりよい感じです。
ゴシックロリータは、少女と対置する男性をしっかり描かないと薄くなってしまうので、こういうところに気をつけてくれるのは、本当にわかっているなと感心します。

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アイドルマスター ゼノグラシア7話『ただいま、おかえり』

朝からグレンラガン8話の致命的なネタバレを見ちゃって鬱。
「ココログでは、一行目がブログのカテゴリ検索で表示されるので、ここでネタバレをかますと不特定多数にネタバレ爆撃することになる」と学習。ひとのふりみて我が振りなおそう。

第七話は、前話の強烈な引きを冒頭からスッとばし。
でも、今回扱っている話は「負けた春香が立ち直るまで」が中心なので、前話で20000メートルから地上へぶん投げられて、どう生き残ったかは、山場にしなくて正解といえば正解。
どう考えたって、吹き飛ばされて花がとんできたラストカットは、冒頭に救出劇をやった場合は、盛り上がりで負けるわけですし。冒頭がよくてラストが地味より、ラストに印象を強くしたほうが印象はいい。たしかにそのとおり。

あと、現状では真が無愛想に写っているけれど、救出劇をやっちゃった場合には絶対こっちが格好良く見えちゃって、地上で待つしかなかった伊織より目立つわけです。
すると、病室前で悩んでる伊織にも観客的には「いやさっさと入れよ」と言いたくなるわけで、デコをかわいく見せるためにも、現状が正解。
起こったできごとをあったように見せるのではなく、限定した枠にはめて魅力的に切り取るのが、たぶん時間や資源に限りがある物語の、演出的な正解。

こういう本来の見せ場をすっ飛ばす思い切りは、あつかえる作画枚数なんかに限りがあるからこそだ。
本当に勇気があるというか、脚本の花田十輝氏は地味にうまい。

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ギガンティック・フォーミュラ7話『閃光』

ココログ一発目の記事は、録画していたアニメ。

タイトル通り”淡々と”行きます。

最初は、キャラクタ年齢が(おもにキャラデザの頭の大きさと肩幅の比のせいで)ずいぶんわかりづらいなあと思っていたこのアニメ、なんで年齢を感じないかずっと引っかかっていたのだけれど、ようやく判明。
学校生活みたいな日常をほとんど書いていないからでした。

そして今回の7話は、やっぱり生活実感の薄いエジプトvsギリシアの話。
パンを食べられないくらい貧しいとか、子ども達が学校にかよってないとかいっても、さすがにこれだけ現実よりも平和そうな世界ならそこまでひどいことになっていないと思うのな。だって、通常軍備ではなくて一機だけでかえのない巨神像にリソースを振り分ければ、ほかはずいぶん楽になりそうだし。
ていうか、そのためのギガンティック同士の戦争じゃないのかなあ。

ギリシアパイロットたちの、海中で腕が力無く藻みたいに揺れてたカットには、ちょっと、くるものがありました。6話がまるまま伏線だったこととがわかったドンデン返しの感覚のまま、サックリ投げっぱなしにしてしまうのが、またうまい切り方。
このイメージ一発の印象で、7話はいいエピソードだったみたいに見えちゃうんだから、映像の力というのはおそろしい。

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