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2007年6月

魔法少女リリカルなのはStrikerS 13話『命の理由』

そろそろ本当に、魔法少女モノなのか、軍隊モノなのかわからなくなってきた
『なのはStrikers』は、すくなくとも『ガンダムseed』あたりより、確実に軍隊や軍事組織を描いている。下手をすると、そのへんの仮想戦記よりもしっかりしている。

そのくらい、今回の13話であかされた機動六課の位置づけは、見事な設定だと思う。
物語が機動六課のような特殊部隊を描くとき、背後の責任系までつくることはほぼない。つまり六課がポシャったときに誰が責任をとるのかがはっきりしているだけでも、『Strikers』は特異なのだ。
しかも、機動六課に危機感をいだくレジアス中将の立場にも、一定以上の妥当性がある。これは本当にすばらしいと思う。

物語では、たいてい、こういう独立精鋭部隊は、雲の上の人を最高責任者にすえるようなかたちでお茶をにごしてしまう。
もうひとつのパターンは、実体がよくわからない設定だけの人物を置くことだ。
ガンダムを例にすると、映画『逆襲のシャア』で、ロンド・ベル隊にかかわった”連邦政府高官のジョン・バウアー”がこれだ。ジョン・バウアーは、ロンド・ベル隊の設定を説明するために重要な位置を占める。けれど、ジョン・バウアーがどんな政治勢力と利害を背景にしているのかは、どうもよくわからないのだ。(ガンダムにそこまで詳しいわけではないので、間違っていたらすみません)

だが、現実問題から照らすと、”雲の上の人”パターンにリアリティは薄い。
現実社会では、組織はただえらい人と肩書きをキャラクタにつけるためにあるのではなく、きちんと仕事の範囲と責任範囲が決まっている。
だから、「本当に世界の存亡をかける(何百万人以上の単位の)損害が出てもケツをもてる雲の上の人」なんてものは、戦争時以外の平時には存在しない。
物語上のエース部隊が無茶をやってもOKなのは、雲の上の人が責任をとってくれるからではない。物語上そうなのだという合意がお客さんとの間にあるからだ。これが悪いわけではなく、合意の部分をどう納得させて、肝心なヒーローの活躍のジャマにならないようにするかが、雲の上パターンのみどころだ。

実体のわからない人(ジョン・バウアー)のパターンに関しては、ほぼダミーとして割り切って使われる
ブライト艦長は、物語中、ただシャアたちネオ・ジオンと戦い続けた。地上で政治活動をしている人の立場をおもんばかりながらラー・カイラムを運営しているところは、画面上に描かれなかった。
物語は戦争状態でそれどころではないのだから、お客さん的にも納得できる。

『リリカルなのはStrikers』では、この責任者のあつかいが面白い。
”実体のわからない人”であり雲の上の人でもある、伝説の三提督は、表に現れない。
かわりに、機動六課がポシャったときに責任を問われるのは、ハラオウン家のクロノとリンディさんであり、はやての恩人である騎士カリムだ。
設立に力は貸してもらった。だが、身内の首が飛ぶから、組織の中で機動六課が傍若無人に振る舞うことはできない
こういう設定への納得感をドラマに結びつけるセンスは、本当にすばらしいと思う。

ただ、ここまでしっかり社会のしがらみを描く必要があったのだろうかと考えると、かなり疑問だ。
お客さんが『リリカルなのは』に望んでいるのは、少女たちのハートフルな成長物語であって、派手な魔法バトルものだと思う。
すくなくとも、組織の論理と戦いながら、組織でしかできない事業をする青年将校のものがたりではないと思う。

機動六課と時空管理局の組織については、どうして早期にもっときちんとした説明を入れておかなかったのか不思議ではあった。
どうやら13話を見るかぎり、

  1. 機動六課がどういう性質の組織であるかという、真実。
  2. 時空管理局と周辺の政治地図上の、機動六課の位置づけ
  3. 機動六課が直面している、政治的な難題(つまり社会的な妨害者)

を、13話にまとめて一気に説明してしまうつもりだったようだ。
しかも、それらすべてが、今回のレリック事件に関わっていることを示すように、物語的に必要なパーツがそろうのを待ってだ。
たしかに、最小のことばで状況をかたることができる、効率のよい整理だったと思う。
実際、この13話で、物語は、この先の展開に緊張感をぐっと増した。新展開を告げる好エピソードだったと思う。驚きをもって見させてもらった。冒頭のアギト、ラストのはやて、同じ古代ベルカ式魔術にかかわるふたりの、『いのちの理由』のカットも印象的だった。

それでもやっぱり、疑問に思う部分はある。
今回かたられた機動六課の話は本当に、前半7話くらいまでをぬるくしても、13話まで引っ張らないといけないことだったのだろうか?

『リリカルなのはStrikers』は、前作までと同じ家族と友だちの話なのか、それとも社会の話なのか。
いったいどこに着地するつもりなのか、狙ってか狙わずか、観客を迷わせる13話だったと思う。

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アイドルマスタ-ゼノグラシア 12話「ムスペルヘイム」

いつも安定してレベルが高いのだけれど、12話の節目直前回だけに、今回はとんでもなく緊密なドラマで構成されていた。
本当に、今期はいい物語が多いのだけれど、その中でもベストエピソード級のすばらしさ。

『アイドルマスター』の話をするとき、たぶん今のシーズンだと比べて面白いのは『グレンラガン』だと思う。

『アイドルマスター』と『グレンラガン』は、両方、ドラマ中心のメカものアニメーションだ。しかも、おもちゃの販促ではなく、人物のドラマをきわだたせるガジェット(道具)としてメカがある。
けれど、『アイドルマスター』と『グレンラガン』には、おおきな相違点がふたつある。

  • 『アイドルマスター』におけるアイドルたち(特にインベル)が、それ自体”ひとりのキャラクタ”として重要キャラクタの位置にあること。
    現状、『グレンラガン』において、ラガンはそういう立ち位置ではない。あちらは完全に人間のドラマがメインで、本当にラガンは道具扱いだ。
  • 『アイドルマスター』の物語は、たいてい一話で話が終わらない。その話の中で語られたドラマは、たいてい次の話、その次の話と長く引っ張られる。
    『グレンラガン』の物語は、一話で完結する。これは、『アイドルマスター』が深夜放送で年齢層が高いお客さん向け、『グレンラガン』が日曜朝で低年齢のお客さん取り込みも狙っていることもある。

『アイドルマスター』の物語作りは、非常に特徴的だ。
男性向きの物語よりも、少女漫画のほうに近い方法論で動いているためだ。

『アイドルマスター』では、前の話の引きを、思い切りテンションの高い状態で終えて後ろにつなぐ。超高空からヌービアムがインベルを地上へ放り投げた6話の引き、前回(11話)の千早が春香へ銃を向けようとした引きがそうだ。
こういう引きかたは、あまり男性客向きとはされない。男性客が、けっこう間の話を飛ばしてしまうため次の話を見るとは限らないのと、ケリがつかないと尻がむずむずする人が多いからだ。
男性客向きの引きかたの例は、バトルものを思い出してもらえるといい。銃を向けようとしたりぶん投げたりしたところではなく、最後の一撃で敵が吹っ飛んだり倒れたりした「死闘、決着!!」みたいな終わりかたをすることのほうが多いはずだ。

『アイドルマスター』では、前話の引きがすごい状態で終わることから、そこからつなぐとAパート(前半部)からひどく高いテンションで話がはじまるのだ。
あまりたくさんチェックしているわけではないけれど、こんなテンション構成を持っているのは、すくなくとも今期では『アイドルマスター』だけだ。

このつくりにはたぶん裏表として、短所もある。
「今回の物語で、なにを楽しめばいいか」をお客さんが迷わなくてすむように、物語の主題を一本化する必要が出てしまう。
これは、『アイドルマスター』の物語が、たぶん恋愛モノに近い構造を持っているということなのだと思うのだ。
つまり、恋愛モノは、まわりにどんな話があっても「どのキャラクタがどのキャラクタとひっついた」だけを見ていると楽しめる。同じように、「どのマスターがどのアイドルとひっつくか」だけを覚えていれば、アイドルマスターは楽しめる。だから、物語の開始を、前話の引きの位置からスタートしても、お客さんは「このキャラがらみの修羅場から開始か」と、わかりやすい。
逆に、だからこそ『アイドルマスター』の物語は、「マスターとアイドルの関係」というひとつの大きな束に含まれないものを扱うのが至難だ。

あんまりにも素晴らしかったので、今回は、キャプチャボードの機能を使って、だいたいのタイムカウントをとってみた。
CMをカウントしているし、秒数単位では相当いい加減なカウントだ。けれど、12話がどういう構成になっているか、順序と感覚は、面白い感じに出ていると思う。

  1. 1:30 不安の提示の開始。モンデンキントEUの人が、連絡ロスト中のインベルについて、「やられましたかね」と不安をあおる。
  2. 2:15 前話の引き。千早(前カノ)が春香(今カノ)に銃を向けた状況の再確認。

    <OPテーマ&CM>
  3. 6:00 千早(前カノ)の回想。後の修羅場展開を強調するための前フリ。
  4. 6:30 千早(前カノ)の前で、インベル(彼)の体の反応を無邪気に語りだす春香(今カノ)
  5. 6:45 春香(今カノ)が、インベルとのことをしらばっくれた千早(前カノ)の前で、インベルとの関係をのろけだす。修羅場シーン。
  6. 7:25 今回のクライマックスシーンに至るための状況説明
  7. 8:05 人造アイドルのマスター。クライマックスに至るための配置。
  8. 8:35 人造アイドルのマスター。「ネーブラがよわっちい」発言。真敗北フラグ。
  9. 9:30 亜美、ハーモナイズが落ちている発言。真敗北フラグ。
  10. 10:00 真出撃。真敗北フラグ。
  11. 11:45 人工アイドル出撃。真、火口に突入。BGMも緊迫感あるものに変更。真敗北フラグ。
  12. 12:30 真回想。真敗北フラグ。
  13. 13:05 春香(今カノ)、この間ずっとのろけっぱなし。千早(前カノ)、ついにぶち切れて今カノに銃を向ける。(お客さんが見逃しようのないショックシーン。OP直前のシーン[前話からの引き]をこのタイミングで回収! まさにベストタイミング)

    <Aパート終了/CM/Bパート開始>
  14. 15:30 CM開け。真、人工アイドルにおそわれる。真敗北。
  15. 17:20 場面を修羅場に。前カノの反撃。
  16. 17:35 真敗北。
  17. 17:55 不協和音。ヒエムス暴走。
  18. 18:15 千早転落。千早(前カノ)、インベルに見向きもされず。修羅場終了。
  19. 19:00 ネーブラ機能停止。人工アイドルに見向きもされず。(真完全敗北。クライマックス前に物語から真を実質退場させて物語をしぼる)
  20. 19:30 シミュレーション結果。グリーンランド沈没。クライマックスへ向けた前振り。
  21. 19:55 春香からの通信。春香、ここからようやく本筋に合流。(本筋ライン)
  22. 21:20 亜美から、春香とインベルのハーモニーが、みんなを救ってくれるという提示。
  23. 22:20 千早(前カノ)、ヌービアムで突撃。
  24. 22:30 人工アイドル、ヒエムス回収。アイスランド崩壊開始。(物語的クライマックス開始)
  25. 23:00 千早(前カノ)、空気を読まずにインベルと春香の一撃の前に立ちふさがる。春香(今カノ)に吹っ飛ばされる。(12話全体のクライマックス。修羅場ラインの”ドラマ”と本筋ラインの流れが、はじめて合わさったのはここ)
  26. 23:45 攻撃成功。ネーブラ回収。(13話の物語的な集結点。)
  27. 24:15 千早(前カノ)敗北。物語的にはヒエムス回収でトゥリアビータ側勝利。(ここも、修羅場ラインと本筋がつながって、次の話以降の伏線になっている。)
  28. 24:45 戦い終わって。次の話への引きとしての、真の状態。春香は、まったくそれとは関係なくインベルとラブラブ。(同上、ただしこのシーンは、真敗北のラインも加わっている)

時刻をで書いたのは、今回のメインドラマである、前カノと今カノの、インベルをはさんだ修羅場展開。
オレンジ色で書いたのは、真敗北展開。
で書いたのは、それ以外の、グリーンランド沈没、ヒエムス回収事件としての今回の話の展開。
三色に色分けしたように、三本あるドラマのラインごとに交互に山がつくられている。けれど、テンションを明確に下げるシーンが実質ない。
(CMをはさんでわずか7分間の、真敗北フラグの固め打ちっぷりは、まさに見事でした。)

※6/24/16:30補足 他のblog感想サイトさんをまわってみてハッとしたのだけれど、今回は真がよりにもよって機械である人造アイドルに負けたことによって「アイドルに心があるか(春香と真の対比)」問題が完全決着した話でもあったようです。たしかに、そのとおりなわけで、12話のバランスのよさに、あらためて感嘆。

あと、タイムラインを打っていってはじめて気づいたのだけれど、12話はほとんどずっと誰かが、しかも緊迫した早口でしゃべっています。沈黙の時間もほぼありません。
一話通しでほぼセリフで埋まっているのに、ガチャガチャした印象になっていないのは、本当に素晴らしいです。

こんなテンション作りをしながら、きちんと物語の内容がわかる。本当に、ムダがないということの大事さがしみるものがある。

今回、特に思ったのだけれど、『アイドルマスター』というのは、”男性不在に見えて男性がいる”物語だったようだ。タイムラインで千早(前カノ)、春香(今カノ)、インベル(彼)と表記したのはそのためだ。
つまり、基本的に男性客は、「インベルうらやましいな」と思っていると、春香と千早が自分を取り合っている気分になって気持ちよくなれる。春香の信頼も、千早の執着も、どちらもインベルに視点を置いていると、それぞれかわいらしく見えるように描かれているのだ。
たぶん、今の描き方の千早を見てウザく感じなかったら、それはうまくインベルを中心にした物語に乗れているということだと思う。
だから「すべてのアイドルには心がある」けれど、物語上、インベルのライバルはいない。ライバルがいるのは、あくまでもマスターのほうだ。つまり、インベルにライバルがいると、物語が現在つくっている中心のラインがたぶんブレるのだ。

これは、女性ばかりの世界をあつかった物語として、非常に秀逸な”男性の置きどころ”だと思う。なにせ巨大メカであきらかに人間ではないインベルは、お客さん的に決定的に嫌われることはそうそうないだろうから。

13話も、次回予告を見る限り、しっかり12話を引きずる様子だ。
本当に、素晴らしく安定している物語なので日記にあまりエントリは立てないと思うけれど、毎回たのしみに見ております。

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(映画)「ブレイブ ストーリー」

ずいぶん長くHDDのこやしになっていたものを、今さら鑑賞。

評判はあまりよくなかったし、これのDVD売り上げの悪さがGONZOを傾かせたとも聞いていたので期待していなかったのですが、いいところはすさまじいです。
以下、ネタバレ全開なので、ご注意。

2時間も気合いの入った映像を見ると、さすがにいろいろ出てきます。文尾がぐちゃぐちゃだったり、読む人にやさしくないテキストですみません。

しっかしまあ序盤の流れはすごいです。
原作は未読なのだけれど、さすが宮部みゆき氏という容赦のなさ。
けれど、子どもが扉を越える妥当性としてはすさまじいつくり。
しかも、「子どもが子どもらしい動機で」扉を越えて異世界に行かせてしまった。
おかげで、異世界に行くというおおきな壁を越えてしまった子どもが、「子どもらしい動機で」行動し続けることができる。
ここの、物語展開への可能性の残しかたは本当にすごいと思う。

惜しむらくは、異世界に行ってからの「おためしの洞窟」の展開が唐突すぎること。
舞台が”ファンタジー”になったとたんに、扉を越えるまでのスムーズで妥当だったドラマの流れまで、”ファンタジー”になってしまった。
実際、絵作りがファンタジックであるわけで、あんまりキャラクタの動きや感情の流れが現実的だとまずいわけではあります。台詞まわしが現実的になりすぎると、ファンタジーの絵の中で現実が動いているようで、ファンタジーらしくなくなってしまうので。

というか、こういうあたりの断層をうまくわたる方法ってのは、ファンタジー作家の技術なんだろうなと思います。

『ブレイブストーリー』に限らずですが、ファンタジーで描かれる人間描写は、シビアです。
最近だと土曜日の朝にやってる『デルトラクエスト』あたりでも、話の中に流れているものはシビアです。けれど、そこは”離婚”とかいうかたちの現実的な人生のシビアさではなく、ファンタジー世界ならではのシビアさだったりする。

どうちがうかというと、ファンタジーの場合は、少年が世界や悪に出会いそれと戦って成長するためのシビアさが描かれます。
けれど、これが現実的な”離婚”だったり”心労で倒れた親”なんかだと、これが解決してもストレートに少年の成長には”絵的に”つながらないわけです。
だから、ファンタジックな試練のかたちとして、『ブレイブストーリー』でも、少年が投獄される展開なんかがある。このあたりでの心情の動きなんかは、現実的ではなくファンタジックなものです。
こういう断層、このあたりの動機と試練の性質のズレを、小説でどうなっているかはわからないのですが、映画では曖昧なまま流してしまっているなと。
そのあたりが、『ブレイブストーリー』の、映画のノリにくい理由なように思えました。

音楽や絵が素晴らしくて、宝玉を探している旅をしている感は、かなりいい感じでした。
異世界ファンタジーは、やっぱりこうだよなという楽しさ。
ただ『ブレイブストーリー』という作品の流れの特徴のようだけれど、やっぱり現実のシビアさが入ってくる。たとえば猫の女の子の、家族がばらばらになったところなんかもそう。
ファンタジックなシビアさと、現実のシビアさは、やっぱり併置してはいけなかったのではないかと思います。どちらかを明確に”主”に置いて、そちらに吸収させるべきだったかなと。
ふたつが同じように配置されているおかげで、『ブレイブストーリー』における”試練”は、ファンタジー(寓話的)なものなのか、現実的なものなのかがわかりにくいのです。

これがなぜ問題になるかというと、試練の解決法がちがうから。
”ファンタジーな試練”は「やっちゃえ」とぶん殴って解決できる。だから、もしも「殴って解決しない」ことを主人公が選んだとしても、それは主人公があえてそれを選ばなかったからということになる。
”現実の試練”は、観客の一般常識を引きずるので、物語的にも殴って解決が無理です。だから、もしも「殴って解決しない」ことを主人公が選んでも、それはそうだろうとお客さんに思われる
ここが観客的に今、どっちなのかわからないと、主人公をどっちのテンションで応援していいかわからない。

映画でつくっている絵からすると、現実を”従”にして、基本的にはファンタジーのほうに吸収すべきだったんじゃないかと個人的には思います。
ワタルの父を、”ワタルに似せて、かつ子どもっぽいことを言わせたりするのは、本当に趣味が悪いというか現代劇の作家さんらしい物語の見せ方だ。
『ブレイブストーリー』自体、ファンタジーの境界のあっちとこっちを頻繁に揺れる物語だ。
けれど、それだけに本来、どこを境界にするか自体が芸でないといけない。アニメーション化するのにずいぶんむずかしい題材を選んだものだと、正直、思います。

しかも、重要な要素なのに、”魔法”の原理や性質などを一切説明していません。
この選択は、『ブレイブストーリー』の対象ターゲット層が3~5歳程度以上からの子ども層なのだと考えれば、妥当なところはあります。
けれど、それでもやっぱり世界とドラマの統一感を取るためには、伸縮性のある物語ガジェットとして魔法は利用しておくべきだったと思います。

ブレイブストーリーを、鑑賞した後、感想をまとめていて特に思ったのは、対象年齢層がよくわからないこと。
対象年齢層があいまいすぎるというか、対象3歳以上みたいな映画をつくるには、原作の”見せ方”がむずかしい話を選んじゃったと思う。
テーマ自体は、子どもでもわかると思う。でも、ワタルとワタルの父のくだりとか、そのテーマを見せるための”見せ方”は、子どもが理解するのは相当難しそう
”もうひとりの勇者”として、世界自体を道具とわりきったミツルも、これが悪役だと思われてしまうと、物語ラインを読み取り損ねるキャラクターです。
ここの、ワタルの父と、ミツルの妥当性に感情移入するとしないとでは、物語に対する感情移入がちがう。
でもここは、「家庭や夢の重さ」を感じたことがあるおとなの観客じゃないと、たぶんつらい。

けれど、そこの感情移入がないと、この物語が”まっすぐな物語”に見えないかも知れない。
でも、”まっすぐな物語”だとして見てもらわないと、作り手的にはたぶん寂しい物語かなと思ます。

魔法の説明を入れればどうにかなったという問題ではなかったかもしれません。
けれど、その、まっすぐさを指示する道具(ガジェット)が、どこかであるとよかったなあと思います。
この物語ラインの指示を、明示ではなくてキャラクタの動きや物語の流れの”見えない線”でやるのは、小説としては上等なやりかたです。
けれど、これを映像で語るアニメ的に上等な語り口にのせたことで、観客が読解するのもむずかしくなっている。

だから、うまいし、映画を見ていると物語もわかるけれど、”燃えられない”ものになってしまっている。感情移入がむずかしくなっているのだなと。
物語にとって”わかりやすさ”とはどういうものなのかを考えたとき、映画版『ブレイブストーリー』は、とても難しい問題をはらんでいると思います。

やっぱり、クライマックスのためのとっかかり(第二ターニングポイント。前の『リリカルなのはstrikers 12話』のエントリですこし触れた「ピンチⅡ」)に”ミツルの両親の心中”を持ってくるのは、ハードだなと思います。

たぶんミツルの背景が”事故”ではなく”心中”なのは、ワタルのお父さんの「俺は俺でいたい」的なわがままを突き詰めた先にあるものだからです。
”願い”のおそろしさと罪というライン(現実を受け入れる勇気というテーマ主線)では、ワタル-ミツル-ワタルの父-ミツルの両親は、一直線にならんでいる
ミツルの妹は救われるべきものとして置かれているが、ミツルは心中事件で失った家族のうち、妹以外のものを救おうとはしていない。
これは、「生きていることには悲しいこともある」というワタルの答え(物語のこたえ)は、本人の意思にかかわりなく殺されたミツルの妹を救っていないせいです。
願いとその罪にかかわるラインの中で、ミツルの妹は無罪だ。そして、だからたぶん物語は最後に彼ら兄妹を救ってしまったのだと思います。

実際、対象年齢層3歳以上にするなら、”物語上、外してはいけない重要要素”に、心中がはいってしまう原作を選んだのはどうかと思うわけです。
しかもこの心中の位置づけも、心中自体が”否定できない現実”というかたちで読む必要がある。だって、物語の答えとしてワタルが出したのは、そういう答えなのですから。
それは、子どもの理解力で理解してもらうのは、けっこう厳しい。原作小説は単行本三冊組だけれど、それこそそのくらい尺をとった果てでないと、子ども的にはしんどいかもしれません。

クライマックスの”黒いワタル”が、”ワタルを捨てた父親の幻像”と似たことを言っていると理解してもらわないと、物語を統一するラインが一本に見えない流れの物語なわけで。
映画のこの書き方で、子どもにこれをきちんと読み取ってもらうのは、けっこうしんどいかもなと思います。

ただ、物語展開としては、非常に美しい。
つまり、物語が与えた「物語の動機=なぜワタルは異世界ビジョンに来たか」に、クライマックスの運命の塔で答えをあたえる展開になっている。
ただ、ここが、容赦なかった序盤の物語温度になっているので、途中のファンタジーっぷりとズレが出ているような気はしました。
たぶん、本当はここで、物語は、”ファンタジーの試練””現実の試練”をひとつに合わせなければいけない展開だったと思うのです。
これだけよく計算された物語の評判が今ひとつだったということは、たぶん観客的に「頭ではわかるけれど、心情的にノれない」流れになってしまったのかなと。

そして、「ワタルの答え」によって、ファンタジー側と現実側の試練を揺れ続けた物語は、現実側の試練によって吸収されます。ファンタジーの定番である「行きて帰りしものがたり」のかたちをきれいに踏んでいるわけで。
参照:<行きて帰りし物語>(とてもわかりやすく書かれているサイトがあったので、興味があるかたは)

物語としては、落ち着く場所もとてもきれいです。
そして、現実側の試練を乗り越えたワタルの前に、最後にあらわれる試練は、ビジョンで最初に出会ったカエルだ。彼の選択が”試練に遭っているファンタジー側”の世界を救う。
それはファンタジーの文法を結果的には踏んでいる。

つまり運命をうけいれる”勇気の物語(ブレイブストーリー)”である。

なんか平仄(ひょうそく)の合った物語だと思ったら、これ大河内一楼(『プラネテス』『コードギアス』)氏の脚本なのですね。
評判が良くないと言われているラストの奇蹟も、運命の女神の粋な計らいとして面白く見れました。
実際、これ、ラインがきちんとつながって見れていたお客さんにはボロ泣きのラストシーンだったと思います。ここが”台無し”に見えてしまったお客さんが多数出たというのが、正直、つらいなあと個人的には思います。

ガイドをしっかり出さないと、読解がむずかしいというか、物語の個々のラインに相当ノリにくいみたいですね。

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魔法少女リリカルなのはStrikerS 12話 『ナンバーズ』

12話は、11話のもっさり感は何だったんだという『なのは』らしい盛り上がり。
特に、物語上オーバーパワーな機動六課に対して、中将という拘束要素がようやく出てきてくれたことが、物語を緊迫させてくれた。中将の懸念の理由も、現状、筋が通っていてよい感じ。
物語を約50%消化して出てくるのは、いくらなんでも遅すぎると思うのですが。

13話も、予告編をみる限りでは、これまでかくしてきたルーテシアまわりの話をあかす、重要な話になるようだ。

ここまで見てきて思うのだけれど、『Strikers』は、26話をおおきくAパート/Bパート的にわけて、物語を作る前半と急転させる後半にきれいに整理している様子だ。
実際、これは『ミッドポイント』というシナリオ上よく使われる概念をきれいに踏んでいるわけで、物語構造上理にかなっている。

ミッドポイントについては、親切に解説してくれているサイトがウェブ上に見あたらなかったので、すこし専門用語を使っている説明をお借りします。(でも、簡潔によくまとまっています:原文には文字修飾なし。一部記述をカット。すみません)

第2幕でもっとも重要なのは、P60前後の「ミッドポイント」である。60ページ目という位置は、P31~90にかけて書かれる第2幕の中心であると同時に、全120ページのシナリオの中央部分でもある。ここに、ストーリー全体の流れを大きく変える重要な事件を配置する

「ミッドポイント」の前後にあたるP45とP75付近には、「ピンチⅠ」と「ピンチⅡ」と呼ばれるエピソードを盛り込んでいく。
ピンチはストーリーを本来の流れから脱線させないために有効だ。ピンチⅠはミッドポイントを活かすための伏線である。ピンチⅡにはミッドポイントのエピソードと直接関連して、それを補い、掘り下げるような挿話を書くとよい。

引用元--やさしい文章講座-文章の書き方・小説の書き方教えます!

用語がならんでいるけれど、つまり『第2幕』というのは、物語全体を大きく3分割したうちのふたつ目。第2幕の前にはもちろん第1幕が置かれているわけで、この1幕と2幕の間の切れ目を作るのが、後述されている『ピンチⅠ』になる。
『ミッドポイント』は、アニメでいうと、アイキャッチ(CM前後)の前に派手な展開があるようなヤツ、基本的にはあれのことだと思っていい。

『なのは』のシナリオはこういうところに本当にセンスが良くて、『ピンチⅠ』にあたる8~9話(つまり魔王なのはさん降臨、新人シメられる)で成長させたティアナに、12話で幻術を使って活躍させている。
これは、ピンチⅠ~ミッドポイントへと流れるセオリーに、忠実にそっている。これだけキャラクタがたくさん動き回っている12話で、物語が最低限度のまとまりを持っているのは、この流れのおかげだ。

これは、たとえばもエリオやキャロがこのはかりごとをしていたらと考えてみるといいと思う。
変化はまちがいようのないものになると思う。”ティアナ以外のキャラクタはまだ物語にドラマらしいドラマを積めていない”から、よくやったとかがんばったと観客の心が動きづらい
12話の全体印象として、なのはたちばかり目立って、新人がいらない子に見えてしまったはずだ。
だから、12話でナンバーズに一矢むくいる新人側の見せ場はティアナがベストだったし、先輩の貫禄を見せる(砲撃のピンチから仲間を救う)のはなのはがベストだった。先輩キャラクタの象徴はやっぱりなのはなので、なのはが活躍してくれないと観客的にさびしいのだから。

12話の物語は、この2つ(なのはの砲撃阻止・ティアナのはかりごと)の展開が中心になって、複雑な話に一本の強い流れをつくっている
目立たないところの基本が、物語が転倒しないように支えているのだ。『なのは』スタッフの、この要所を外さないセンスは、本当に素晴らしい。

逆に、これだけセンスがある作り手の物語が、なぜここまでの前半もっさりして見えているのか、ずっと気になってしかたがない。
13(or12)話構成のアニメが市場に多く、13話構成のテンポで進む物語を見慣れた身としてはのんびりして感じるせいもあると思う。
最近は、26話の全構成から、各話へのエピソード配置を計画的にしすぎたということなのかと思うようになってきた。
11話と12話を見比べて感じるのだけれど、『Strikers』は、構成上で盛りあげがちいさくなる話を、はっきり切り捨てすぎだと思う。捨てるところを捨てるのはメリハリだ。けれどある程度、一話あたりの見どころと交換だと、わりきるものなのではないだろうか?
(最近だと、今週のグレンラガン12話も、物語の流れから切り離された、明確な捨て回だった。それでも、四天王アディーネとニアの髪のおかげで、そう見えなくなっているわけで。)

本当に『なのはStrikers』は、おもしろいけれどつくりが手慣れていないというか、変なところで書きたい衝動を刺激する。
たぶん、個人的には好きだということなのだと思う。

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魔法少女リリカルなのはStrikerS 11話 「機動六課のある休日(後編)」

ごめんなさい。今回、ちょっと感想がネガティブです。
物語の展開速度をあげるか、もっとわかりやすく危機感をもりあげてほしかったなというのが第一の感想。
それと関係しているが、現状、中心が何なのかわかりにくいというのが第二の感想だ。機動六課がレリックと少女を守るのはわかる。けれど六課が、町の守備部隊から要請を受けたわけでないのに、少女をスバルたちにまかせて飛行型ガジェットに戦力の大部分をさいている理由はよくわからない。

9話と10話がよかっただけに、状況が急を告げたはずの今回の11話は、よけいにもったいない。
このままだと13話まで攻防戦が続きそうに思える。だが、状況は大きいはずなのに、あまりにも危機感がない。これはある意味新鮮なのだけれど、『リリカルなのはStrikers』は、味方の判断が的確すぎて安定しすぎているせいだ。
トップのはやてはバンバン先手を打って、隊長たちの即応能力も高い。新人たちのミスも、本当に致命的になるまえに誰か上役がフォローしている。組織としてこうあってはほしいのだけれど、おかげであんまり盛り上がらないんだろうなと、個人的に思う。
あきらかにスカリエッティたちが挑戦者で、機動六課のほうがチャンピオンに見えるのだ。それも、実力差がありすぎて、チャンピオンがどんなKOを見せてくれるかが気になる防衛戦だ。

こうした味方が有能な物語だって、たくさんある。(銀河英雄伝説におけるヤン・ウェンリーの立場など)けれどたいていの場合、上層部が無能で主人公たちが振り回されるか、でなければライバルもむちゃくちゃに有能だ。
けれど、『Strikers』では現状、機動六課をめぐる上層部はおろか敵であるスカリエッティたちも、まだほとんど描きこまれてはいない。
本当は、七話くらいまでの間に、今回の十一話を不安にするための種をまいておくことはできたのかもしれないけれど、あまり組織論に突っ込みすぎると『なのは』らしくないようにも思える。
家族の物語だった『リリカルなのは』に、組織が必要だったのかと考えると、本当にこわい選択だとは感じる。続編もので舞台を広げるのは、本当にむずかしい

本当に、味方にヒーロー、ヒロインがたくさんいる豪華な編成だと、物語作りはたいへんだ。
ハリウッド映画などで続編モノがよく失敗しているのも、こういう新要素と旧要素のバランス調整なのかと思いながら見ていた。
外野からは、人造魔導師たちがスバルたちを瞬殺するくらいでも、緊迫感としてよかったように思える。せっかく今までガジェットばかりぶつけ、人間の敵と直接戦闘するシチュエーションを温存したのだ。それを生かして第一印象をつくるほうが、むしろセオリーだっただろう。
けれども、『Strikers』には、あえてスバルたちを大事にしてやる理由が、おそらくあったのだ。

ただ、それでも物語は、先に何が待っているかとは別に、その場その場がおもしろいことが要求されてしまう。
今回の緊迫感の薄さは、いろいろな状況を考えあわせても、やっぱりまずいのではないかという気がする。機動六課は隊長二人の限定解除(+レイジングハートの新モード)と、リーンのユニゾンまで残している。この鬼戦力が、的確な判断で運用されるのだ。
今回の”敵”登場の第一印象では、ピンチになる気がまったくしない。勝つとわかっていて、焦点もわかりづらい戦闘が長く続く展開は、やっぱり問題がないとは言えないと思うのだ。
敵戦力はまだ増えるのだろう。けれど、機動六課側にしたところで、これからまだシグナムが合流する様子だ。

『Strikers』が目指すものはともかく、なにか一発、観客をアッと言わせる展開があるのだとは思う。
その”一発”でスカしてしまうと、かなりダラッとした第一クール終了になってしまうかも。

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天元突破グレンラガン 11話『シモン、手をどけて』

個々のシーンで大勝利して、すばらしく爽快で、でも微妙に引っかかる印象の話だった。
つまり、個々の情報の処理はよかったけれど、全体のデザインとしてこんなに情報詰め込むのはどうなのよ?というクエスチョンマークが飛んだ11話だった。

それでも、技術的に言うとやっぱり高水準。
3本の大きい物語の流れ(ライン)を、破綻させずに使い切っていた。

  1. カミナの遺言を、はじめてシモンが理解して「シモンというひとりの男」として立ち上がった。(今回の物語の主線)
  2. 大グレン団のみんなが、シモンをリーダーとして認めた。
  3. ニアのキャラクタを確立させた。

わざわざこんな難しい話に新しい敵(不動のグアーム)を初登場させた理由は、たぶんふたつある。アディーネが性格的にからめ手に向いていないこと(今回の敵はいやらしくて下品であるほどよかった)、そしてお客さんが「シモンとアディーネの因縁の戦い」のように見ないよう誤解を避けるためだ。
つまり、使い捨てのように見せることによって、物語のフォーカスが当たっていない敵の印象を小さくして、お客さんにシモンとニアへ視点を集中してもらうという効果が出ている。

ラストの捨てられた姫たちの解決は、印象深いシーンだった。つまり、ただきれいだというのではない、理に合わない作り手の業みたいなものが出た、腹に残るシーンだ。
ここでやらなくても、これだけで話を一本つくるなり、大きい話の導入にするなりできたエピソードの、ぜいたくな投入だからだ。
それでも「ニアを『螺旋王の姫』という特別なものではない、ただのニアとしてキャラ的にひとりだちさせた」という印象づけとして、非常によかったと思う。

主線のクライマックスであるシモンの名乗りは、11話まで物語中一度もシモンに”これ”をさせなかったことで、「立ち上がったシモンの頼もしさ」を、うまく印象づけている。
8話でカミナが死んでから、回想シーンの中で、まともにカミナが登場したのも今回がはじめてだ。
つまり、出し惜しみして決定的なところで「観客がみんな会いたかったカミナ」の登場で流れを作り、そのまま必殺技の”狙って撃った”初披露までどとうの展開で燃焼しきってしまった。
本当に、カミナの回想から必殺技までの流れは素晴らしく爽快だった。

ラガンに空をとばせたのは、一話での天井をぶち抜いて空を飛んだあのカット以来だ。やはり「新しい局面に入った」シモンの物語を印象づけるためのイメージである。
このとき、ニアにシモンのぼろぼろになった”手”を見せたのは、生身の身体を意識させるカットだ。人間関係のスタートの切り方としては、ニアとシモンに、ちゃんとした恋愛をさせることを射程に入れている様子だ。
このあたりの展開は、本当に構成的にうまい。

これだけしっかり丁寧に作り込んでいて、それでも全体デザインに引っかかるのは、「シモンのひとり立ち」のラインと、「ニアの確立」のラインが、動機が似ているようで重なってないせいだ。
この流れなら、10話段階で、「ニアが人形である」という話をシモンに聞かせる展開を、一週間ちゃんと頭に残るように印象づけていてもよかった。2本のラインを前もって重ねておかなかったのは、けっこう痛恨のミスなんじゃないかと思う。

「人形」よばわりされるニア。「俺が信じる俺を信じる」最後まであきらめないシモン。
”ひとりの人間として立つ”ということでは似ているのだけれど、こうして並べて冷静に見ると、ふたつの問題は別モノだ。

そのふたつの問題を、それぞれ忠実に強調するシーンが作られているから、情報の詰めこみ感が出る。
本来もっと燃えられる場所で、二種類の燃料が交互にくべられることが、必要以上に物語をめまぐるしくしてしまう。
ジャンルのマニアやコア層を意識した作品の常ではあるのだけれど、”作りたい見せ場”をつめこんでしまうことも状況を加速している。そのせいで、せっかくしっかりした細部を、見る余裕がなくなってしまっている。
整理をしないと、情報量が多いタイプの物語は、バラけてゆく一方になってしまうのだ。

ニアとシモンのラインの混乱には、もうひとつ引っかかりの根がある。
そもそもシモンは、話の流れ上、自分の問題を解決したのであってニアのことを心配して助けにきたわけではない。
物語的要請で、「女の子が助けを求めている、だから彼はやって来た」という理屈以前のところをかなえた。だから、爽快だった。だが、理にはかなっていない。
(そもそも、勢いで流れてはいるが、ニアが大グレンの艦橋にいることだってシモンは知っているはずがないのだ。)
『グレンラガン』は理屈で見るアニメではない。そうかもしれない。だが、螺旋王の”人形”の話のように対象年齢層が高い話も同時にやっているから、やっぱり多少は引っかかるのだ。

本当に、物語を作るのはむずかしいなと思う。
これだけのデメリットを背負っても、二本のラインを並行する複雑な構造には、大きい意味があったからだ。
「シモンのひとり立ち」「ニアのキャラクタの確立」を同じ話でやったこと自体は、本当にうまい。
9話から登場したばかりのニアが、たった3話で、すでにメインヒロインの位置をかっさらっているからだ。
”ヨーコの株を落として相対的にニアをあげる”ことなしにこの納得感をつくるのは、やっぱりしっかりしたレベルの高い仕事なのだ。
これから”シモンの物語”としてグレンラガンが進む限り、男・シモンのひとり立ちを後押ししたニアの位置づけも、どうやら不動なようだ。
ニアの立たせ方との妥協点でベターなものを選んだのだろうけれど、本当は「ニアの物語」と「シモンの物語」の動機がきちんと重ねられたらベストだったというのは、事実だと思う。

ひとつひとつのシーンやディティールに支えてもらってはいるけれど、シナリオの骨格は、バランスが悪かったと思う。
本当に、この詰め込み方は、へたな監督がやったら不完全燃焼で終わるか空中分解かだったのではないだろうか。

総合メディアとしてのアニメーションの、強さとこわさを同時に見た気分の一話だった。

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天元突破グレンラガン 10話『アニキっていったい誰ですか?』

今回も安定してよいデキ。
『グレンラガン』の雰囲気作りが、繊細に注意を払われていることが、安定の核にあるように思う。

今回の10話でいうなら、シモンにアニキのことを語らせるシーンを、あえて晴れた日中の甲板を背景にして進めたあたりは、本当に素晴らしい。
そうすることによって、観客の中にカミナのイメージを想起させることができるからだ。
それによって、喪失の衝撃にただ混迷していた9話に比べて、10話では落ち着いてもなおしみてくる悲しみを拾うことができている。
本当にこの追いかけかたは丁寧だ。カミナはスタッフにも愛されていたキャラクタなのだなと思えて、観客的にも胸にくるものがある。

カミナは、荒野が似合う風のような男として描かれていた。
シモンはどうも、暗い穴の中から、それをぶち破り外へと突破する男として対比されているようだ。
つまり、「シモンにとって本当にだいじな戦いは”暗闇の中”で行われる」というイメージになっている。そして、暗い天井をぶち破って、広い世界、明るい世界を目の前にひらくことが、物語が彼に期待している勝利であるように見えるのだ。

今回、動かないラガンを蹴っていた、あのカット以外に主役メカであるラガンとシモンのカットはひとつもない。よくよく考えてみると、これはとてもセンスのある選択だ。
たぶん、10話をふつうの感覚でエピソード配置すると、「カミナのイメージ」「8話までの物語のイメージ」だった晴れた荒野と対比するために、シモンを暗い場所で悩ませていたんだろうなと思う。ラガンを動かそうとして失敗するシーンだって、この話の流れなら、本来は話の前半でほうりこんでおくほうが、むしろ定石なのだ。
それが、今回の10話では、徹底して「カミナの思い出話」を日の当たるところでする展開を続け、シモンを暗闇に置かなかった
シモンが暗闇にいたのはわずかに2カット。

  1. いちはやくニアの危機に気づき、ラガンに乗り込もうとして失敗したカット。(その後、シモンは生身で彼女を救いに”暗闇から明るい場所へ”飛び出している)
  2. 10話ラスト、それでもアニキのことを暗い部屋で引きずり続けるシモンと、彼自身の勇気を”明るい場所”でほめるニアを描いたカット。(現在物語中でシモンが抱えている問題と、それがニアにからんで解消されることを暗示するカット)

どちらも、10話でもっとも重要なキーになるシーンである。

昨日、『リリカルなのはStrikers 10話』の感想エントリでも書いたが、物語が情報にかけるアプローチには、”足し算的な性質”を持つものと”引き算的な性質”を持つものがある。
引き算してシーンのキメ止まりをあげるということは、つまり「シーンを整理する」ということでもある。
『グレンラガン』は、この”整理”において、よくできたものの多い今期アニメの中でも、頭ひとつ抜けている。

ただ、またイヤなこと言うなあという感じではあるが、気になるところもある。
アイキャッチやらいろんなところに”ニア色”を出している演出と、バランスを失いかけていたことだ。
カミナを引きずりすぎず、「物語は新しい局面に入っているよ」と指示するためなのだろう。
けれど、これをやるなら、物語本編では、ニアと対置されるヒロインであるヨーコにもっと印象を集める必要があったと思う。実際、見せ場はあったのだけれど、ライフルでニアを援護するときに「ヨーコらしい、彼女にしか言えない一言」がなにかあると、よりよかった。
ニアは、現在物語として破格の立ち位置をもらっている、性格的にもある意味無敵キャラだ。だから、ヨーコは相当がんばらないと、物語上の居場所がどんどん削られて”旧ヒロイン”になっていってしまうのだ。
このあたりはストレートに、「セリフの力が、ニア中心の演出に負けた」状態だと思う。

ともあれ、ヨーコに大事なところで大きなセリフがなかったことすら「シモンに物語の焦点と印象をあわせるため」という理由はあるわけで、やはりレベルの高い仕事だ。
本当に、ガイナックスも、これだけのクオリティを維持する能力があるなら、もっとガンガン仕事してくれるとファン的にはうれしいのにと、これはすなおに思う。

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魔法少女リリカルなのはStrikerS 10話 「機動六課のある休日(前編)」

ようやく、物語回しがうまい『リリカルなのは』が帰ってきた感触。
どこがうまいかというと、30分という尺に対する時間の使いかただ。前作のAsあたりは際だってこれがうまかった。

『リリカルなのは』の物語回しのテンポは昭和アニメーションに近いと、個人的に思っている。
基本的に物語あたりのエピソード数はすくない。そして、OVAならアイキャッチまでのAパート(10分程度)で終わらせる展開に30分かけて、物語の結論は容赦なく次回へ送ってしまうのである。
だが、その余裕のある物語回しのおかげで、キャラクタの日常描写に時間をかけたり、細やかな人物像が浮かんでくるシーンを作ったりすることができる。今回でいうと、エリオを心配するフェイトのようなシーンは、ふつうに物語作りをするときはまっさきにはずしてしまうところだ。こういうシーンは、物語を一切進めない。
それでも、『リリカルなのは』では、物語を遅くしてでも丁寧にそれを描く。その積み重ねが『なのは』の空気感をつくりあげてゆくからだ。

戦闘をウリにしているのに、雰囲気作りに過剰に時間を投資するのが、『リリカルなのは』の芸風だったのだ。
『Strikers』ではここまでこれが見られなかったから、『なのは』のシリーズとして見ると不満だったのかもしれない。

昔(80年代前半くらいまで)のアニメーションは、そんなに物語的な大きな山や急展開はないもののほうが多かった。
せいぜい、8話にひとつ程度で、一年49話として全体で6つ程度の山があるイメージだったように思う。
この比率をAsにあてはめると、「新デバイスへの代替わり」と「夜天の書復活」のふたつが大きいヤマで、他は基本的にそこまでの前フリと、それへの締めだ。
『Strikers』も今のところ、8話で一ヤマの物語だ。つまるところ、テンポ的には今くらいの物語まわしの速度で、きちんと物語進行は印象づけられる。それはむしろ古くからある堅実な方法だ。
「物語はきちんと進んでいるんだな」とお客さんに思わせるぶん、状況がきっちり進んでいればいいのだ。実は、描くものを適切に選択すれば、本編分量の25%(本編20分とすれば5分)も物語進行に回せば、きっちり物語が進んだ話に見えるのだ。

テンポは堅いのに今回の『Strikers』の序盤が不安定だったのは、数が少ないからまちがってはいけないエピソード選定に、あきらかに違和感があったからだ。
昔のアニメですら、序盤は気合いを入れて急展開を作っていた。だいたいの体勢ができてローテーションが回りはじめるまでは、けっこう気合いを入れてテンションをあげていたのだ。
『Strikers』は、序盤で勢いをつける展開をつくらず、「勢いをつけるキャラクタが誰になるか」も明確には指定しなかった。
これだけのキャラクタ人数がいながら、役割分担に明確なメリハリをつけることを拒絶した。これは、今風のキャラクタの動かし方になる。
テンポは昭和、キャラクタの動かし方は今風だ。
だから、『なのは』の感触はなつかしく、印象は新しい。これは、他の作品と『なのは』をわける、ひとつの明確な武器だ。これを徹底して手放さないのは、制作者がよくわかって動かしているということなのだと思う。
実際、10話の”ただの休日風景なのに世界が広がっているような加速感”を出すためには、シーンのキメ止まりをあげるため、9話以前に「新人のプライベートを描く展開を描いてはいけない」。市街地を11話で戦場にするなら、市街地風景も初出のほうがお客さんの印象は強くなる。だから、首都近くに機動六課の基地があるのに、首都の市街地もこれまで描かなかった。

「あれもこれもと面白そうなものを足していく」のは、足し算的なつくり。
「全体構成の中で、できる限りキーポイントで出す情報を初出にして、要所のキメ止まりをあげる」のは、引き算的なつくりだ。
へたくそだと、引き算ができない。物語の引き算は、実際、勇気がいるし非常に難しいのだ。
よくガマンして地味な展開を7話まで続けたなとは思う。でも、勢いをつけなければいけない序盤での引き算は、ちょっと難易度が高すぎる。

きっと展開は、制作者がはじめに26話分たてた計算通りに進んでいるのだろう。
でもやっぱり、物語にエンジンをかけるまで10話もかかる(そして第一アクトを低めのテンションで引っ張り続ける)のは、効率が悪かったなとは思う。

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ハヤテのごとく! 10話 「世にも微妙なハイデフレ。ゲームは積まずにプレイしろ」

今回は、原作の畑先生原案だということだけれど、典型的な「ダメな話作り」の回だった。

ちょっと思うところがあって、blogのカテゴリ表記を単純化しました。blog主は、特定番組を毎週追いかけて感想を書くのに向いていないと気づいたためです。
エントリを書いているのは、素晴らしかったときとダメっぽいときばかりで、定期的に書く気が起こらない。衝動が起こったときにエントリを立てるほうが、スタイルとして好きなのです。その結果、感想エントリの半分がべた褒めで半分が問題考察という、かたよったblogになっているのですが、続けることに一番納得できるのはこのかたちだろうと考えました。
このblogで、文句をつけたりどっちが上論争をしたいわけではありません。が、仕事のあいまにこれからも淡々と書き続けるなら、こういう形式が一番いいかなあと。

話を戻して、今回、どこがダメだったかというと、小ネタはたくさんあっても中心がないこと。
マンガはコマあたりの文字数をあげたり、大ゴマを使ったりして「一本読むのにかける時間を調整できる」メディアだ。漫画家の仕事は16ページなり24ページなりといった。ページを単位に話をつくることであって、読者がそれを何分かけて読むかは仕事の範囲ではない。
それと比べて、アニメーションでは、1本あたり30分きっちり時間を使わなければならない。小ネタの連発で一本話を持たせるのは、マンガや小説に比べてずっと難しいのである。

今回の10話が散漫になったのは、序盤をナギたちで回し、ナギの話と思わせておいて、その実まったく関係のなかった生徒会メンバーに物語をあずけたせいだ。
マンガなら勢いのままページ数を怒濤のように使い切ってしまうことができたが、アニメーションではそうはいかない。30分の尺は、たぶん勢いで逃げ切るには長すぎるのだ。
8話のサイドストーリーでありながら、8話本編を見ているとニヤリとできる展開がすくなかった。これも、初期提示した物語の動機(サイドストーリーとしてのおもしろさ)に物語を集中できなくなり、物語が散漫になった原因のひとつだ。

アニメーションでは、シーンを切りすぎて、視点までぽこぽこ飛ばしてしまうと、流れを切ってしまうという点も、散漫さの原因のひとつだ。
つまり、観客の予想外のところへ流れると、新しい話を理解しようとしている間に笑いどころを逃してしまって、よほどうまくつながないと笑えなくなってしまう。
アニメーションは、電車のようなメディアだと個人的には思う。つまり、レールを引いてやらないと簡単に脱線するし、突然の小回りもきかない。そして、ブレーキを引いてもそう簡単には止まってくれない。
そのかわりに、アニメーションは、音(音楽、効果音、声)と動画と、ときには文字まで使って、マンガや小説のようなメディアでは不可能な情報量を観客へと輸送する。
つまるところ、オーソドックスな、テーマや主人公に物語を集中するつくりの話が、非常に強いメディアだ。ということだ。
綱渡りをするなら、終着点までのレールはきっちり敷かないと地獄を見るメディアだ。とも言えるのだと思う。

アニメーションがもっている特殊性が、物語に対してこういう効果をおよぼすのだと、面白い感じに見せてくれた第10話だった。

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