カテゴリー「萌えものアニメ」の5件の記事

ハヤテのごとく! 10話 「世にも微妙なハイデフレ。ゲームは積まずにプレイしろ」

今回は、原作の畑先生原案だということだけれど、典型的な「ダメな話作り」の回だった。

ちょっと思うところがあって、blogのカテゴリ表記を単純化しました。blog主は、特定番組を毎週追いかけて感想を書くのに向いていないと気づいたためです。
エントリを書いているのは、素晴らしかったときとダメっぽいときばかりで、定期的に書く気が起こらない。衝動が起こったときにエントリを立てるほうが、スタイルとして好きなのです。その結果、感想エントリの半分がべた褒めで半分が問題考察という、かたよったblogになっているのですが、続けることに一番納得できるのはこのかたちだろうと考えました。
このblogで、文句をつけたりどっちが上論争をしたいわけではありません。が、仕事のあいまにこれからも淡々と書き続けるなら、こういう形式が一番いいかなあと。

話を戻して、今回、どこがダメだったかというと、小ネタはたくさんあっても中心がないこと。
マンガはコマあたりの文字数をあげたり、大ゴマを使ったりして「一本読むのにかける時間を調整できる」メディアだ。漫画家の仕事は16ページなり24ページなりといった。ページを単位に話をつくることであって、読者がそれを何分かけて読むかは仕事の範囲ではない。
それと比べて、アニメーションでは、1本あたり30分きっちり時間を使わなければならない。小ネタの連発で一本話を持たせるのは、マンガや小説に比べてずっと難しいのである。

今回の10話が散漫になったのは、序盤をナギたちで回し、ナギの話と思わせておいて、その実まったく関係のなかった生徒会メンバーに物語をあずけたせいだ。
マンガなら勢いのままページ数を怒濤のように使い切ってしまうことができたが、アニメーションではそうはいかない。30分の尺は、たぶん勢いで逃げ切るには長すぎるのだ。
8話のサイドストーリーでありながら、8話本編を見ているとニヤリとできる展開がすくなかった。これも、初期提示した物語の動機(サイドストーリーとしてのおもしろさ)に物語を集中できなくなり、物語が散漫になった原因のひとつだ。

アニメーションでは、シーンを切りすぎて、視点までぽこぽこ飛ばしてしまうと、流れを切ってしまうという点も、散漫さの原因のひとつだ。
つまり、観客の予想外のところへ流れると、新しい話を理解しようとしている間に笑いどころを逃してしまって、よほどうまくつながないと笑えなくなってしまう。
アニメーションは、電車のようなメディアだと個人的には思う。つまり、レールを引いてやらないと簡単に脱線するし、突然の小回りもきかない。そして、ブレーキを引いてもそう簡単には止まってくれない。
そのかわりに、アニメーションは、音(音楽、効果音、声)と動画と、ときには文字まで使って、マンガや小説のようなメディアでは不可能な情報量を観客へと輸送する。
つまるところ、オーソドックスな、テーマや主人公に物語を集中するつくりの話が、非常に強いメディアだ。ということだ。
綱渡りをするなら、終着点までのレールはきっちり敷かないと地獄を見るメディアだ。とも言えるのだと思う。

アニメーションがもっている特殊性が、物語に対してこういう効果をおよぼすのだと、面白い感じに見せてくれた第10話だった。

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Yes!プリキュア5 16話『こまち小説家断念!?』

すっかりグレンラガンの裏番組になりつつある『プリキュア5』だが、今回の16話は素晴らしかった。
個人的には、シリーズ最高傑作級だと思う。

アニメーションは奥行きの感覚が素晴らしく、スピード感もあり、一秒くらいで流れてしまう短いカットが本当に豊かだった。
止めるところは芝居で稼ぎ、そのぶん動かすところは贅沢な、リミテッドアニメーションの理想的なパターンと言っていいと思う。
プリキュアでアクションが格好良かった話は、本当に久しぶりだ。

○16話の物語の、素晴らしかった部分について

脚本は、後述する大きな穴がひとつあるのだけれど、それ以外は文句なし。
キーキャラクタであるナッツの事情をしっかり前提にとって、こまちの夢と失望の話を書きながら、ナッツとこまちが仲良くなる話。
かつ、もうすっかり忘れかけていたドリームコレットと王国の話を、ナッツとココのキャラクタの描き直しと当時に復習させてくれる話。
非常に射程距離の長い一話だが、パズルのようにテクニカルなアクションの流れとセリフ配置で、きっちりやりきってしまった。
こんな複雑な話が、ごく自然にするりと見れてしまうということ自体が、非常にたしかな技術のあらわれなのだ。

なにより素晴らしいのは、クライマックスの展開の無駄のなさ。複雑な話を、よくもこれだけアクションシーンの中でやりきったものだ。
特に、ドリームコレットがはげしい戦闘の中で飛んでしまって、「やさしさを利用されてパルミエ王国をほろぼされた」経験をもつナッツにそれを守らせ、それをさらに「気持ちをこめて書いた物語と絶望を利用された」こまちが守るという展開が、絶妙。せりふが邪魔になるアクションシーンに無理に説明ぜりふを入れることなく、必要なことを語りきっている。
今回の敵へのとどめも、めずらしくこまちの親友であるかれん。

「こまちの大切な物語を、土足で踏み荒らしたことを反省なさい」

実は『プリキュア5』の人物配置の中で、お姉さん役であるこまちに対して、対等な高さからこのことばがかけられるのは、かれんだけなのだ。ほかのキャラクタからだと、言われるこまちがキャラ的に損をしてしまう。
けれどこの話の中で、こまちは自分の書いた物語と絶望が利用されたことだけは無条件に怒っていいし、その怒りを「いいんだよ」と認めてくれるのは友だちであればこそなのだ。
言ってほしい場面で、言ってほしい人が、言ってほしい内容のことばをかけてくれる。
物語にとって、こんな単純なことが、どれほどの力を持っていることか。

○16話の物語の、光があたると必然的に出る影

今回は、細かい表情の表現も丁寧で、ほんとうによく行き届いた話だった。
ただ、ひとつだけどうなのだろうと思った点がある。
今回語られた「こまちの心情」を本当の意味で追いかけるのは、プリキュア5の主要なお客さん層(小学校低学年以下の女の子)には無理だ。

小説に限らず、「なにかを作る」ということは、厳しい。
”作ったもの”が相手を動かせなかったとき、相手の感受性やセンスを責めることができないからだ。”もの”が駄目だったとき、責任はまず無条件に作り手自身に返ってくる。
今回でいうと、こまちは自分の小説の評価が悪かったことで、悪い評価を出したナッツを責めることはできない。
逆に、なぜそんなことを言うんだと仲間に詰め寄られたナッツの姿を見ると、それまで自分の書いた小説がほめてもらったことすら「友だちだから」なのかと疑ってつらくなる。
そのナッツが責められているときの、こまちのつらそうな表情の意味が、プリキュアのお客さんである小学校低学年以下くらいの児童にはピンとこないと思うのだ。

しかも、最後の最後まで、のぞみたちはものづくりの苦労に近づきもしないし、実はナッツも『海賊ハリケーン』というこまちの小説をほとんど評価していない。
ただ、ポジティブ女王ののぞみが「ナッツは素直じゃない」と勝手に解釈しただけなのだ。
その一線の誠実さを、おとなの視線からは苦さとともに評価できる。けれど、子どもから見るとすっきりしないオチなんだろうなとも思うのだ。

「友だち関係の中での自分の位置づけ」は、人間関係があらわれる相対値の関係だ。仲がよければ高くなるし、けんかでもすれば低くなる。
だが、”もの”を作るということは、まわりに友だちがひとりもいなくても位置づけが出る、”もの”と相手が一対一の状態で試される絶対値の関係だ。だからこそロマンもあるし、夢にもなるのだと思う。
ただ、日常生活の中でこの”ズレ”を味わうことは、非常にすくない。
一貫して今回の16話では、ものづくりにまつわるこの特殊な感覚を土台にしている。
そして、安易ななぐさめはないし、こまち自身が持たない限り楽観的な展望すら一切ない。

その厳しさは、たぶん主人公ののぞみやプリキュアたちよりも、敵であるデスパライア(おとなの象徴っぽい)のほうに近い。
そのズレの感覚のせいで、この話は、本当によくできているからこそ評価しにくいものになってしまっている気がする。

グレンラガンはたしかによくできているけれど、最近の『プリキュア5』は、もうちょっとかえりみられていいと個人的には思います。

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ハヤテのごとく!8話『ネコミミ・モードで地獄行き』

今期の版権アニメは、本当に、丁寧につくられたしあわせなものが多い。
その中でも、アニメ版『ハヤテのごとく!』は、コメディとしての切れ味はいまいちだけれど、動いているキャラを見る楽しさでは今期の一、二を争うと、個人的に思う。

○キャラクタの描かれ方について

アニメ化で一番得をしたキャラクタは、ナギだ。
漫画では身長差の表現が演出まで昇華しきっていないケースが多いけれど、アニメではとても表情豊かだ。

一番特徴的なのは、ハヤテ視線でナギを見下ろす構図の多様さだ。
こんなに13歳の鎖骨を描くかというほど、角度を変え方向を変えてやってくれている。
次回予告でふたりで看板を持たせる演出など、本当に、ひとつひとつ身長差好きの胸に刺さる。監督はまちがいなくロリコンだと思うよ。

ナギの友だちの伊澄や咲夜も、ハヤテよりずいぶん背が小さい身長差キャラなので、漫画で多かった横に並ぶ構図では、ナギが身長差ヒロインに見えにくかったのだ。
アニメ版では、身長の低い3人を区別するため、ナギは近くから急角度で見下ろし、伊澄は近めだがナギのような身体接触がほぼない。咲夜に至っては、カメラ位置が遠く、顔がアップになること(クローズアップ)がほとんどない。
『ハヤテ』アニメは、こうしたキャラクタごとの演出プランのメリハリが素晴らしいのだ。

もうひとつ、うまいなと常々思っているのは、マリアさんを徹底して女性らしく格好良く描いていること。
今回の8話でいうと、ビリヤード中におしりを向けてボールを狙っていた構図。黒いストッキングまでしっかり描いていて、尻フェチ的にも、メイド服の下にもぐりこみたい足フェチ的にも印象深かった。
おとなっぽいポーズを作る人が他にいないので、これだけでマリアさんのみどころを間違える必要はないし、ナギとの対比もきわだつのだ。

今回の女装ハヤテでも、その丁寧さはぶれない。
きちんと肩幅が広くて胸板がたいらな、少年の体で描いてもらっている。逃げようとしているハヤテや、服を返してもらっていた半裸のハヤテは、どう見ても女の子に見えない。
ハヤテの女装だと知らないタマやクラウスさんのイメージシーンの中でだけ、しっかりまるみをおびた女の子体型に描く念の入れかたは、もはや執念だ。

○なにが重視されているのか

コメディとしてのテンポが、個人的に原作のほうが好きだからというだけではなく、やはりアニメ版『ハヤテ』はキャラクタ描写に比重が大きい作品だと思う。
原作どおりだと言われてしまえばそれまでだけれど、やはりコメディに針を振るなら、後半でも女装話をどこかでは引っ張るべきだからだ。
今回の8話は、物語的にみると「マリアがハヤテの真意を知りたい」ラブコメであって、構造上ハヤテ女装は完全に浮いてしまっている。たぶん、お客さんの反応で、8話に賛否両論あるとしたら、女装が物語のオチに関係ないせいだ。(オチに女装がからんでいると、女装がプラスでなかったお客さんの中でも「あれは笑いだったんだ」と納得感できるため。)

けれど、きっちり、女性キャラクタの見せどころを丹念に描き分けることに関しては、アニメが圧倒的に強い。
丁寧さが、女性だらけのキャラクタ陣を、それぞれ魅力的に浮き上がらせているのだ。
これは、アニメ版『ハヤテ』が、どんなお客さんに向けていてどこで勝負するのか、制作側に合意があるということだと思う。
本当に、成功失敗という枠ではなんとも言いがたいけれど、しあわせなアニメ化作品だと思う。

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らき☆すた7話『イメージ』

今回は、京アニのある種お家芸ともいえる、『夏の終わり』の話。
演出にもセリフをしゃべる時間にもぶれがなく、どこまでも安定している。

そういう手慣れた手法の影に隠れてはいたけれど、絵の止まりっぷりもすごかった。
らき☆すたの、最大の特徴は労力の省きかただと思う。

実際、らき☆すたは止め絵が多い。
ただ、止め絵の使い方は、たぶん従来作品に比べて格段にうまい。

それを支えている手法のひとつは、止め絵の「いつ止めて、いつ動かすか」のルールがわかりやすく整理されていることだ。

  1. クローズアップではなく複数キャラが画面にいて、効果音が鳴るとき、誰かが動く。
  2.    ( 同 上 )    、誰かがしゃべって注意をひくとき、そのキャラクタが動く。
  3. 背景音楽の切れ目では、なにがしか画面が動く。

「予期せず動きがない」ことには、お客さんは失望する。だが、止まっているのが基本でも、そこからの変化がおもしろければ、乗ってくれるお客さんは注視する。
実際、『らき☆すた』では、単一キャラのクローズアップを多用せず、複数キャラが画面にいる状態をつくる。お客さんの注視点を、キャラクタ大までちいさく制限することで、全体としての動きのない背景が目だたないよう工夫しているのだ。
スター俳優のクローズアップが多いハリウッド映画の絵づくりとは大きく違う、日本アニメ独自の手法としてこれから定着してゆくかもしれない。

もちろん、そんな視覚トリックだけでお客さんを引っ張るのは不可能だ。
動かないぶん、10~30秒くらいなら、一部分しか動かない基本一枚絵で勝負できる、きちんとした止め絵を持ってきている。
そして、動かすときは、動き自体がおもしろそうに見えるよう、カメラ位置や角度、緩急のつけかたに工夫をこらしている。

考えてみれば、動かない背景の中でちいさいキャラクタだけが動く構図は、キャッチーなあのオープニングから共通だ。ここから入れば、同じように特徴的な本編とも、違和感がすくない。

どんな世界でも、予算潤沢に見えない場所で工夫をこらして勝負している姿はかっこいい。

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セイントオクトーバー20話『ロリ救急!友情?同情?過剰に超看病!』

はじまったときは「ロリだけどゴシック(ゆがみ)ではないなあ」と思っていた今シリーズも、気づけばいい感じにゴシックに。
ゴシックロリータというのは、「頭蓋骨をどうやってチョコレートコートにくるむか?」みたいな醜と美の往還だと思うのだけれど、いい感じにそういうものになっています。
たぶん、本当のゴスロリ好きには「ちがう」と言われるのだろうけれど、アニメのお客さんに向けて入り口を広げたら、こんな感じになるのでは?

今回は、神父の看病話。
27歳と14歳の、年の差13歳でひっついちゃいそうな雰囲気が、ちょっとゴシック。
ロリキャラが学校の庭でトカゲを丸焼きにしてかじってるところも、冷静に考えてみると受け入れられるのがおかしいゆがみっぷり。
そして、金髪美青年神父の背中に刻まれていた、大きな傷があらわになるところもゴシック。ふつう、こういうときは傷口を出さないものなのだけれど、あえて醜い感じに出してしまうあたりは、やってくれます。

うまい感じに、ゴシックな記号を描線のすっきりした萌え絵の中に滑り込ませているのは、長い目で見ると強い雰囲気作りです。物語も、萌えやバカ話とえげつないものの間の往復。
1話2話あたりで視聴をやめてしまった人も多いでしょうが、即切りしたかたや未見のかたは、14歳の女の子にさりげなく人殺しをさせた5話まで見ることをおすすめします。

『セイントオクトーバー』の作風って、ゴシック記号とロリ記号(ケーキとか)が乱れ飛んで、ほかでは見られない絵をたくさん作ることだと思います。
実際、これ、本当にいい意味でひどい。たぶんアニメふうのデフォルメ萌え絵やバカ話を抜くと、U局でも放送できないものになり果てます

そうそう、神父と探偵の、男の友情はかなりよい感じです。
ゴシックロリータは、少女と対置する男性をしっかり描かないと薄くなってしまうので、こういうところに気をつけてくれるのは、本当にわかっているなと感心します。

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